第19話 おほかたの

文字数 1,006文字

 商店街の途切れた辺りは、炒った珈琲豆の芳ばしい香りが初夏の重苦しい陽の中に沈殿していた。朝から汗を全身に掻きながら高野誠は、焙煎機の中で転がる豆の色を見ている。冬は暖房いらずの焙煎機も、冷房のないこの店の夏は表を開け放っても到底追いつかないほどの熱気がこもっていた。
 全国的な外出自粛が続く中、周りの飲食店などの嘆きとは裏腹に、誠の店の通販の注文は増加し続け以前よりも忙しいぐらいだった。午前中は誠が一人で延々と焙煎機を回し珈琲豆を生産し続け、午後からは毎日アルバイトの女の子がやって来て袋詰めや梱包を手伝った。
 昼飯には少し早かったがキリがよいので誠は仕事を中断した。そして、いつものように昼食用の珈琲を淹れようとしていると、入口にアルバイトの女の子が突っ立っていた。誠は声を掛ける前に念の為、携帯電話と壁掛け時計の二つを確かめたが、やはり時刻はまだ正午前だった。
 少し早く来てしまって、と所在なく言う女の子の眼の周りは赤く腫れ上がっている。とりあえず椅子に女の子を座らせ、誠は珈琲を淹れようとやかんを火にかけた。豆を挽く間も、湯を注ぐ間も、二人は無言のままで、誠は店の暑さすらすっかり忘れていた。
 マグカップを手渡し、誠も並んだ椅子に腰を掛ける。女の子は無言のまま、受け取った珈琲に口を付けずただ眺めている。誠はまるで自分が責め立てられているような、ふと若い頃に経験した恋愛のもつれを思い出した。何となく雰囲気で理由も察し付いていた誠は優しく問い掛け、女の子も少しずつ彼氏との喧嘩について話し出した。
 よくある痴話喧嘩を女の子は泣きながら話し、誠は話を聞きながら懐かしさが込み上げてきた。渡したティッシュで涙を拭う眼の前の女の子と、服の袖で涙を拭う思い出の中の女の子。
「今日の仕事はいいから、今すぐ彼氏の所へ戻ってちゃんと話しをしてきな。彼も、きっと待ってるから。ほら、急いだ」
 女の子は泣きながら誠にお礼を言うと一目散に出て行った。店先で見送った女の子の走る後ろ姿、その若さの躍動を誠は懐かしんだ。
 夏の太陽も沈んだ時刻、仕事帰りの誠の妻は、いつもはすでに消えているはずの店の灯りがそのままなので顔を出しに立ち寄った。
「今日は珍しく遅いじゃない。まだ、終わらないの?」
 焙煎機の片付けを終え一息つこうと珈琲を淹れていた誠は、妻の分の珈琲を注ぎマグカップを手渡した。
「昔の君を思い出してね、待ってたんだよ」
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