第96話 谷深く

文字数 1,061文字

 花粉の飛散にもマスクは活躍したが、眼鏡でも防ぎようのない眼の痒みが工藤恵里を悩ませる。外出を控えた生活は、何も昨春からのことでもなく、恵里にとってはいつもの春と変わりはなかった。
 家の中にいると、恵里はついガラス越しに外を眺める。恵里が飼っている家猫のように、囲われた世界から夢見る春の屋外は魅力に溢れていた。
「ほら、鳥だよ」
 見開いた眼で一心に鳥を追う猫を恵里は可愛くも思うが、一生を小さな世界に閉じ込めていることもまた引っ掛かった。鳥は、あの空を飛んでいるのに。
 昨年から、自由にどこへも行けなくなった。同居する両親は今のところ無事ではあるが、共に持病を抱えていたので、必要以上に外出や人との接触を避け、ほとんど家から出ることはなかった。恵里も仕事の契約が切れた今、家は世間と隔絶された家族だけの小さな世界だった。
 一人でどこへも行けず、いつも親と一緒だった幼い頃のことを最近恵里はよく思い出す。両親とも話す機会は増え、何よりも買い物を始めとした、外の世界との接点を恵里は一手に引き受けていた。次の仕事の当てもない恵里にとっては、役割があることで少しは気休めにもなっていた。
 洗い終わった洗濯物のかごを恵里が持ち上げると、待ちかねたように猫は二階のベランダへと走って行く。いつもは干している側でリードに繋がれながらも外を満喫できる機会であったが、残念ながら春の間はお預けだった。迷いもなく力一杯階段を駆け上がる後ろ姿に、恵里は自分を重ね悲しく感じた。社会に飛び出したはずの先に待ち受けていたのはお預けだった。
 洗濯物を室内に干し終わっても、猫はずっとベランダへのガラス戸の前から一歩も動かず、屈託のないつぶらな瞳で恵里を見上げている。普段からほとんど鳴かない猫だけに、静かに眼に宿す心情が痛いほど恵里には突き刺さった。恵里は猫を抱き上げると、ガラス戸の鍵に手を掛けた。
 ガラス一枚を隔てた向こう側には、春の香に満ちていた。裏の家の白梅や、日光に温められた木のむせかえるような芳香、そして雲を運ぶ風、あらゆるものが春を讃えている。腕の中の猫は一生懸命に春を嗅ごうと鼻をひくつかせていた。
「あら、お外出れたの良かったね。恵里、花粉は大丈夫なの……」
 「大丈夫」という言葉に込み上げてきた将来の不安は、押さえつけていた感情の蓋を突き破った。花粉の仕業ではない涙が溢れ出し、抱き寄せられた母の胸元で気が済むまで恵里は泣いた。
「恵里は、ちょうどこんな春の日に生まれたからね」
 涙の訳は、時の香か。春に生まれた恵里の記憶を遡る。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み