第66話 はやせ河

文字数 1,104文字

 何を今さら慌てることがあろうか。ここには守られた世界があり、いつでもここに来れば変わらない仲間と新しい毎日があり、ここにいる下山健二は羨望のプレイヤーである。
 日々、拡張されてゆくオープンワールドに降り立つことで健二の一日は始まる。短い睡眠時間以外は、この仮想世界の住人であり、仕事のように与えられた目的をクリアしてゆく。数年前のゲームサービス開始当初から始めている健二は、抜きに出た能力と装備で他を圧倒し、この世界を知り尽くしていた。では、現実の世界における健二はどうだろうか。健二にとっての現実とは、人の見る夢のようなものでしかなかったのではなかろうか。働かずとも住居を与えられ、買わずとも冷蔵庫を開ければ食事があり、それはまるで掃除も入浴も必要としない、まさにバーチャル世界に似たような暮らしだった。
 ある日、示し合わせた時間になっても仲間が一人ログインしなかった。彼か彼女かも分からないが、几帳面な性格のプレイヤーだったので、これまでそんなことはなかった。仕方なく健二は新たな仲間を募り、旅に出ることにした。世界は、いくらでも替えが利くのである。
 ここを完全なる世界と信じてやまない狂信者の健二にとって、当たり前のように更新される全てに人の手があることなど関係なく、眼前に投げ込まれる新たな物語へ、これまでも一心不乱に向かってきた。現実の世界も人の思惑が人々を動かし、それが原動力となってきた歴史はあるが、計算の枠からは外れた偶然性に翻弄され続けたことも事実である。しかし、本来安全であるはずの仮想世界へ、今や現実の脅威は襲い掛かろうとしていた。
 長年見続けてきた世界の異変の兆候を健二はすぐに感じ取った。更新は予定から滞ることが出始め、常に一定数存在したプレイヤーの数は少なからず減っていた。それが何を意味するのか、健二には読み解くための外の情報がなかった。現実世界は見えないウイルスによって、あらゆるところに障害が起きていたにもかかわらず。
 現実世界を作ったのが神であるならば、仮想世界を作り上げたのが人であることは確かだ。神であるはずのゲームメーカーは、事業の再構築の一環として、健二のいる世界を消すことに決めた。このニュースは仮想世界にもすぐ知れ渡り、尾びれが付いた情報が駆け巡った。健二を模したキャラクターには、余命が定められた。そんな折、普段、まったく会話のない母親から呼び出された健二は、両親のウイルスの陽性を告げられた。健二は、すぐに検査を受けに外の世界へと行かなければならなくなり、どちらが本当の世界かは明白だった。
 異変は何の前触れもなく、いつも突然やって来る。ゲームのように。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み