第100話 尋ね見る

文字数 2,205文字

 この都市は今、深い海の底へと帰ろうとしている。昔懐かしい故郷を思い出すように。

 干上がった土地に人が集まり、さらに人は海を埋め立て、この都市は長い時間を掛け拡大していった。それは、人の夢や欲望の類を糧にして、この都市の姿は、正に人のあらゆる念のようなものを喰い散らかしながら成長し、大きくなり過ぎた都市はついに満足ができなくなった。与える人も減少してゆく今、初めての収縮が始まる。

 男と思わしき者が雑居ビルの非常階段をゆっくりと上っている。ホームレスであろう、手入れされていない縮れた髪や髭は長く伸びて面を隠し、街の汚物に浸さたような黒ずんだ服を厚着し、汚れが染み込み固くなった両手に破れた鞄を持ち、左右で異なった靴は鉄製の階段に歪なリズムを打っている。急ぐこともなく優雅にさえ見える足取りは、この都市の息遣いのようで、あまりに自然な動きは存在を感じさせず、誰がこの者に気付くだろう。

 この屋上はこのホームレスの数ある寝床の一つだった。本格的な冬が始まる前に、今年最後のお気に入りの寝床を楽しむつもりだった。ここは安全で空は近い、何よりもこの都市の夜景を気兼ねなく一望できる場所だった。
 時間を掛けて辿り着いた屋上には人が一人いた。ホームレスは荷物を下ろすと、そちらの方へと近づき声を掛けた。
「こんばんは。よく来るのかい」
 手摺に頭を垂れていた若い男は驚き顔を上げると、慌てて何か言おうとしたが、声にならないような声を発するだけだった。
「ああ、驚かしてごめん。見てのとおりホームレスのおじさんだから、何も気にしなくてもいいよ。それで、何してるのここで」
 増してゆく焦りについに咳き込み出した若い男は、鞄からペットボトルのお茶を取り出すと、何度にも分けて飲み込みながら喉を潤し、最後にそれを断ち切るように咳を一つした。
「ずびまぜん、ずみません、すぐに下ります」
 屈んで鞄にペットボトルを詰め込もうとするがもたつき、さらにチャックは中々閉まらない。ここから逃げ出さんばかりの若い男におじさんは気遣いながら話を続ける。
「ごめんごめん、驚かす気もなければ、襲うとか物騒なこともないから。夜景見に来ただけだし、お兄さんもそうでしょ。ゆっくりしていきなよ……」
 手を止めた若い男は呆気に取られた表情でおじさんを見上げながら、その場にへたり込んだ。

 夜の闇に吸い込まれて映る都市の衰退は著しく、もはや掛ける言葉も見つからないぐらい萎んでいるようにおじさんには見えた。
「随分、酷くなったね」
 遠くを見つめるおじさんの眼や語り掛けるような口調に若い男はやや落ち着きを取り戻し、立ち上がり服の汚れを払った。
「びっくりさせて、ごめんね。君もここ、よく来るのかい。おじさんも、ときどきね、来るんだよ」
 少し怯えながらも若い男は頷いたが、おじさんは真っ直ぐ景色を見つめ気にも留めなかった。
「いいよね、上から見る大きい世界は…… 下から見上げても、ほとんど何も見えないし、世界に押し潰されそうになっちゃうよ」
 黙ったまま若い男も、遠くまで広がる都市の夜景を見つめた。出会って間もない妙なおじさんの語る言葉に、若い男は親近感を覚え始めていた。
「ちなみにさ、あの高いビルとか、ほれ、そのビルも、あの街なんかなんて、ほとんどのビルは俺が造ったんだよ」
 始めはぼんやりと聞いていた若い男は、急に呆気に取られた顔に豹変した。
「ええっ、ビルを造った人なんですか」
「若い頃にさ造ったよ、いっぱい造った、下っ端だけどさ、どれもこれも造った」
 ここから見える都市は両手をいっぱいに広げれば収まるほどで、大きなビルでさえも手で握り潰せそうなほど小さかった。おじさんの言葉に含まれる錯覚のようなものが、この都市には渦巻いていると若い男は思った。
「たくさん、いるよ。本当にたくさんの人達がいるよ、ここには……」
 ここにはたった二人しかいなかった。
「ここの人達は、それぞれの都市を見ていてさ、おじさんにはね…… パラノイアじゃないかと思うんだよ、都市ってのは…… 若い頃は色んな人の抱く妄想とかがさ、この都市をここまで大きくしたと思っていたんだけどね、それは違ったな。全部、おじさんだけが勝手に思ってた世界だったんだよ。きっと、君とおじさんでも見え方が違っててさ、こうして同じ景色を見ていても、それぞれの眼に映る都市は別のものなんじゃないかな……」
「ぼ、僕の見ている都市って、な、何なんでしょうか……」
「おじさんね、いつからだったかはもう忘れたけど、色んな人の声が気になり始めてさ…… まあ声でもあるんだけど、歌という方がより近いのかな…… 人それぞれの都市の歌っていうの、別に歌手みたいにさ、本当に歌ってるわけじゃないよ、その人の詩みたいなものかな、そこにさ、それぞれの都市があると思うんだよね」

 幾多の人生が、この都市の放つ輝きの下にあり、見上げた数多の星々は、過ぎ去った命の遠き煌めきだろうか。
 この静かな夜の背後に様々な人生があり、それぞれの都市の(うた)が聴こえる。やがて詠は小さくなり、都市の夢見た幻の海へと響きながら、去りゆくさざ波と共に消えてゆく。
「そろそろ僕、帰らないと終電が…… また…… ここで会えますか……」
「もちろん会えるよ…… いつでも会える。おじさんは、もう君の都市にいるから」

「CITY SONG 2020–2021」完
令和3年3月4日
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