第57話 槇の戸を

文字数 875文字

 リビングで深夜番組を見ていた息子が部屋に上がると一階はがらんとした。さっきまで聞こえなかった壁掛け時計の秒針がやけに響き、古い型の冷蔵庫から低い唸りを上げるような音がする。食卓に座り、熱い緑茶をすする植松裕恵は眠れなかった。
「そもそも夜に緑茶なんか飲んでいるからかしら、でも、いつもの習慣だからあまり関係ないわ。あっ、夕方の珈琲かしら、いや、あの程度で寝れなくなるなんて。そっか、お昼食べた後にウトウトしてソファーで少し寝てたのかしら、そういえば、寝付きかけた時に配達が来て起こされたのよね。じゃあ、今朝の二度寝の寝坊なの、そんな、三十分程度で夜寝れなくなるわけないし……」
 裕恵には普段から深い悩みはなく、こんな少し眠れない些細なことでも大袈裟に考える傾向があった。
「何かテレビやってないかしら」
 裕恵には普段から深い悩みはなく、あれほど真剣に考えていたと思いきや、あっさりと気が変わるのであった。
「何も面白そうなのやってないじゃないの。そうね、しんぶん、シンブン、新聞読みましょ」
 裕恵には普段から深い悩みはなく、切り替えたあとのテンションは一気に高くなる。
「もう、まったく嫌になることしか書いてないわね。ウイルス、ウイルス、ウイルス、って、そんなことは知ってるから、どうすれば良くなるのか、そこが知りたいのよ。まったく、もう」
 裕恵には普段から深い悩みはなかったが、さすがにぐちゃぐちゃになった生活への不満と心配はあった。
「あらやだ、これ昨日の新聞じゃないの。うっかりしてたわ」
 裕恵には普段から深い悩みはないけれど、ついつい失敗するそそっかしさは気にしていた。
「ああ、また買うの忘れてるわ、マスク。スーパー行って、薬局行くの遠いのよね」
 まだ明けきらぬ夜。遠くの方から近づいてくるバイクが家の前で止まり、また去って行った。
「ちょっと、もう朝刊来る時間なの、やだわ」
 裕恵は表に出ると、少し冷たい空気が顔に当たり気持ちよく感じた。
「新しい新聞の匂いって好きだわ。小さい頃からずっと好き」
 いついかなる時も変わらないものに、裕恵は安心を覚えた。
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