第29話 あかざりし

文字数 952文字

 大学の友人達と花見を計画していた二月頃から世相は一変し、一つ、また一つと岩切萌美の生活は変わっていった。大学の門は閉ざされ、不必要な集会や活動の禁止を命じられた学生達は、オンラインで夜な夜な飲み会を開いて愚痴を言い合うことぐらいにしか楽しみを見出せず、萌美も何となく参加していた。
「ジャジャーン、今日は桜を用意しました」
「何それ、百均のでしょ」
「本物の桜、今なら場所選びたい放題、どこでも空いてるよ」
 友人達が話すのに任せ、萌美はニコニコしながら聞いていた。オンラインに限ったことではなく、いつも萌美は自分から話すことは少なく、話しを聞いている方が多かった。
「ところで、あんた彼氏と別れたんでしょ」
「そっちは、どうなの」
 今宵の集まりには女しかおらず、恋の話に花が咲くのは世の常だった。こうなると奥手の萌美は居心地が悪く、すぐにでも退出したい気持ちで一杯になったが、萌美の恋の話しを酒の肴にするのも友人達の常だった。
「それで、萌美ちゃんよ。どうなの、どうなの」
「そりゃ、恋する乙女萌美の心はくるしゅうございますことよ」
「ほら、また萌美赤くなっちゃって、かわいい」
 はぐらかしごまかし何とか萌美が話を逸らすと、いつも酔っ払い達はなだれ込むように次の話題へ移ったので、萌美の密かな恋がばれることはなかった。
 花見を萌美は楽しみにしていた。当初は数人だけの集まりが、いつしか膨れ上がり男女合わせて大人数の会へと発展し、そこにドイツ語の授業で一緒だった萌美の憧れの男も参加する予定だった。
「花見中止になったけど、ドイツ語に出てるあのイケメンと今度会う約束しちゃったんだよね」
「えー、何それあんた、聞いてないし」
 花の散る前に萌美の恋は人知れず散った。これでよかったのだ、と萌美はいつものようにニコニコしながら友人の幸せを願った。
 春眠の遅い目覚め。暖かい風が花を散らすうららかな一日だった。萌美は洗濯物を取り込み畳んでいると、シャツの袖から桜が一片舞い落ちた。萌美は花弁を拾い上げると、そこにはまだ瑞々しい潤いが残っていた。
「なんか花見に未練があるみたいだな私……」
 ティッシュを一枚抜き取った萌美は、綺麗に二回折り畳むと、その間に花弁を差し入れた。そして、ドイツ語辞書のページの間に挟むとそっと辞書を閉じた。
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