第79話 おもかげに

文字数 970文字

 強い海風が運河に架かる橋の上を吹き抜けた。黒いコートの裾は助けを求めるように足にぴったりとまとわりつき、風が止むと脱力したように歩行に合わせ軽やかに揺れた。大橋和幸は飛ばされないように手で押さえていた灰色のハットを脱ぐと、内側は汗で湿っていた。秋晴れを通り越し上がり続ける気温は、晩夏が再び舞い戻ったようだった。
「夏のように熱い男が季節を呼び戻したか…… ふっ、馬鹿馬鹿しい」
 埋立地の無機質な道を蒸れるマスクに我慢しながら和幸は歩いた。
 斎場に着いた和幸は敷地には入らず、入口の外で立ち止まり腕時計を見た。時刻は火葬が執り行われている予定だった。青い空を仰いだ和幸は、懐かしい思い出が次々と現れては消えてゆくのを見送った。
 二人の若い男は海水パンツ姿で浜を歩いている。男達の焼けた肌は夏の勢いを増した陽光すら照り返すように輝いていた。
「おい、どこまで歩くんだ。こっちへ来ても、どんどん人もいなくなるだけじゃないか」
「まあ、いいじゃないか。見せたいものがあるんだ。ちょっと付き合えよ」
 熱くなった砂は足の裏を刺すような痛さだった。それでもかまわず二人は歩き続け、辺りに海水浴客がいなくなったところには鄙びた塩田があった。
「今どき珍しいな。まだ、こんなものが残ってるんだな」
「見せたいものは、これさ」
 和幸は初めて見る塩田を観察したが、木の囲いの中に敷かれた砂があるだけで、期待したような白い結晶はどこにも見当たらなかった。
「僕はね、いつか死ぬ時に、この故郷の塩を思い出すと思うんだ。なんでも、人間の身体は塩と水でできているって学校で教わったろう」
 空を見上げながら和幸は、焚かれる煙の行く末を想像していた。見えない煙は風に乗って故郷へと先に舞い戻っただろうかと。
 随分と時間が経った後、和幸へ訃報を知らせてきた息子が一人で白い布に包まれた箱を抱え建物から出てきた。
「大橋さん、こんなところに待たして、すみません」
「いいんだよ、こちらが無理を言って来たわけだし。なんせ、こういう状況だからかまわないさ。それで納骨はいつの予定なんだい」
「故郷の親戚は、僕が帰るのを躊躇ってまして、今はまだなんとも……」
 息子の乗るタクシーを見送った和幸は、海が見える方へと行ってみることにした。
 海風の運ぶ潮の香。和幸は友の幻像を追い求めるように歩いていた。
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