第87話 鳥はくも

文字数 868文字

 春が全部連れ去った。残されたのは品田奈保子だけだった。
「ああ、鳥が飛んでいる」
 始めは鳥の飛行を眼で追っていた。奈保子は、その鳥の名を知らない。おそらく、夕暮れだったであろう。それも覚えていない、記憶の曖昧。時折、羽ばたいていたであろうが、翼を広げたその姿は止まっているように見えた。段々と小さくなるその鳥は、やがて点となり、雲の彼方へと消えた。
「花は咲いたの」
 頭を垂れて見つけたのは、それは春の花であろう。その小さな花の色すら忘れ、花弁の形や葉の形状も思い出せない。もちろん、名を知る由もなく、綺麗な花だったことだけを覚えているだけで、もう散ったのか、それとも散る前だったのかは分からない。奈保子の脳裏にあるのは、もう長くはない花の香りが残っているからである。
「白色だろうか、桃色だろうか、黄緑色もまたらしく」
 春の色を思い留めようといくら探してみても、見つかりはしなかった。すでに風が吹き去ったあとだった。風は春の色を根こそぎ奪い取り、一つも残しはしなかった。奈保子が色から春を連想しようにも、そこに置く色はもうすでになかった。
 春は還ってしまった。
「今日は帰ろう」
 家が還る場所ではないと奈保子は知っている。いつも取り残されるのは人で、人以外の生命は季節と共にあった。
「もう季節は人を信じてはいないのだろうか」
 季節の外から奈保子は見つめていた。
 夏や秋、冬といった他の季節も外から見つめてはいたが、どうしても春に対しては特別な心残りがあった。
 還るために生きている生命達のように奈保子も生きてみたかったが、春は奈保子を選ばなかった。翼も、香りも、色も奈保子にはなかった。取り残されたまま、春を望み続けるものだと奈保子は知った。
 いつしか奈保子は春のことをあまり考えなくなった。春先に少し思い出すことがあっても、そこに以前の憧れはなかった。
 奈保子が春を忘れてしまったように、季節を信じなくなったのは人の方だったのではなかろうか。
 春は奈保子を忘れずに、ずっと奈保子を包み込んでいた。人の命もまた、長い春の一瞬の出来事である。
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