第97話 春はいぬ

文字数 988文字

 いつかは終わる春の日は、昨年の早春に突如訪れ、それから時は……
 青葉の桜は夏へと誘うことを忘れてしまったと、土屋幸司は散った花弁を一枚拾い上げながら思った。語り掛けようにもそこに相手はいない、見渡す限り誰もいない都市。
 一年という区切りは今や何ももたらさず、まだここがいつなのかは分からなかった。決まりも失い、名もない「今日」は、何と呼ぶべきなのか。混乱、もしくは幻滅、身近にある適当な言葉は、それぐらいしかなく、口に出すことさえも忘れ、音や意味さえも、もうどこかへ行ってしまった。
 「昨日」は、何をしていたのだろうか。昨日は、過ぎ去ったものに付けられた名前で、便宜上、以前はそう呼ばれていた。随分と見なくなったその姿さえも、去って行った本質さえも、書き込まれていたラベルは剥がされ見失った。
 新しくやって来た不確定なものに、そもそも見知らぬそれを、どう扱うのかは、まだ決めることはできなかった。気付けば、春の終わりからずっと、ここに居据わりながら、もうすでに一年が経過している。
 何を語り掛け、どう言うのだろうかと思案してみても、同じところを回っているようでいて、実質は進んでいないだけではなく、始まるはずのことが止まったまま、停滞の点から何一つ得たものはなかった。ただ置かれた記を、見つめることもできず、触れることもできず。
 都市もまた、春の終わりを知らされず、緩やかな崩壊の手前で、新たな一日が貼られるのを待っている。たくさんの認識と羨望が見掛け以上の構造を築き、巨大になり過ぎたゆえに手に負えなくなった流体は、拡張されることでしか、もはや維持できなかった。「昨日」の上へ「今日」が貼られるはずの都市は、一昨日を最後にそのままだった、
 始まりを知ることなく、偉大な時が過ぎ去ってしまった「今日」、「昨日」がそうだったと初めて理解する。まだ今日は訪れることもなく、昨日もまだ去りはしていない。同じ春へ語り掛ける前の、名残り惜しさに揺らめく、狭間のどこかにありながら。
「桜、散りました……」
 散ったままの桜は、その姿を留め、都市は花弁で溢れていた。
「春のままです……」
 風すら吹かず、言葉はなびかない。
 もう何回呟いたかも忘れ、あと何度呟けば夏が訪れるのか、それを誰が知るのだろうか、尋ねようにもここに相手はいない。春の終わりが終われぬ都市で、変わらぬ日は一年相当を経た。
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