第69話 雁がねの

文字数 1,125文字

 昔を思い返すことが多くなったと中村愛は、携帯電話を眺めながら考えている。年を追うごとに人との連絡は少なくなり、今や連絡の途絶えた知人も数多い。二度にわたる転職に伴う引越しもそれに拍車を掛け、挙句の緊急事態宣言である。人との面会どころか、当初は不安に駆られ交わされた連絡も数か月経った今となっては全くない。他人のことを考えられるほどの余裕は消えてしまったのであろうか、それとも、愛は必要とされていないのだろうか。元々引っ込み思案であった愛は、この情勢下では迷惑だろうと自分からの連絡を控えていた。どちらにせよ、愛の携帯電話には、クーポンやサービスのお知らせ以外に連絡が入ることはなかった。
 他人が存在することで自己を認識するように思われる経済や資本の特殊な構造は、世界中が平等に陥ったこの状態において、様々な事象を露呈させたのも明らかだ。富や権力は危険を回避するには有利であり、能力も情報収集と予見においては力を発揮する。どちらも持たない者は何を頼りにすればよいのか。運だけであろうか。愛は無防備な身を世に晒しながら生活をしているが、どれも持ち合わせていないように見える。それ自体が運すらないようにも思わせられると、自己による解決策は見当たらない。突如、降ってくるような他者の救いの手、そもそも、そんなものはこれまでにも存在したのであろうか。仮にあったにせよ幻影を掴むような行為に全てを託せるほど楽観的に愛は生きることができなかった。
 前へ進むことのできない愛が今すぐに取れる方法として残されていたのは、懐古しかなかったのかもしれない。過去には悲喜こもごもではあるが経験という確かな実感があった。先に待ち構える愛の想像を超えた未来を考えるには、生活の余裕か覚悟が必要ではある。余裕はもちろんないが、それでは何も持たざる者の覚悟を生むのは何であろうか。無知、無謀であれば、自然と覚悟を携えている若気のような錯覚に陥ることもあろうが、人は知恵を実感の中から育むとするのであれば、愛が過去に浸ることで、その欠片を見つけることはできるのかもしれない。全ては愛次第である。
 じっくりと時間や日数を掛け、古くを遡り、愛が見つけたものは孤独だと知った。孤独はずっと愛の背後に貼りつくように、これまでも存在した。ただ、今はその存在も増し、愛を押し潰そうとしている。孤独は恐怖や不安を映し出し、愛を惑わしていた。
 これまで愛が見ていた世界は、孤独が孤独を見せまいと創造した幻影だったのではなかろうか。いずれ愛が死ぬ時、愛は孤独を知ったであろう。だが、愛は生きながらにして孤独を理解した。孤独そのものが愛であり、愛が生まれた時に孤独に名付けられた名前が愛だったのである。
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