第21話 袖ぞ今は

文字数 1,046文字

 車内は甘い香りが漂っていた。フロントガラスの向こう側でアルファロメオの赤いボンネットの隙間から白い水蒸気が煙のように噴き出している。夜のまったく人気のない埋め立て地の上で、小椋陽介は何もかもが上手くいかないことに我ながら呆れてしまった。
 車から降りた陽介は防波堤に隠れて見えない海の潮の匂いを感じた。見渡す限り人影もなく、闇の中に潜む黒々とした大きな倉庫と照明の当てられた会社の看板の他は街灯がポツンと陽介のオーバーヒートした車を照らしているだけだった。
 ひとまずボンネットを開け、熱く煮えたぎったエンジンルームを冷ます間に陽介は、古くからの友人に電話をした。
「オイ陽介、何時だと思ってんだよ。まあ、起きてっけど。で、何?」
 陽介の案はこうだった。友人の実家は自動車修理工場を営み彼もまた親と一緒に働いていたので、保険のキャリアカー配送サービスを使い、緊急の避難先として彼の実家の修理工場へと車を持ち込みたい。夜の急な電話に出てくれる修理工場なんて彼の他に思いつかなかったのである。
「マジで? これから? まあ仕方ねえけど、朝起きてイタ車なんかあったら、日本車至上主義のうちの親父は黙っちゃいないだろうな」
 次は保険会社である。こちらも幸いなことに、すぐにキャリアカーを配車してもらえることとなった。夜で道も空いていて三十分ぐらいで到着するとのこと。これで車の件は目処が立ったので、陽介は改めて友人に電話を掛け直した。
「三十分で着いて、作業で三十分、で、お前、今どこいんの?」
 夜の埋め立て地で車が故障する二時間前のこと。それまで陽介の全ては円滑に回っていた。
 助手席に座った彼女とのドライブは、夜の街を走りながら始めは楽しい会話が弾んでいた。しかし、彼女が何気なくバッグから取り出し噴いたオーデコロンが全ての凶兆だった。陽介は車内に匂いが付くのが嫌で、彼女はそんな小言を言われるのが嫌だった。ましてや、お気に入りの香りを否定された彼女は黙っちゃいられない。運転席の陽介は益々ヒートアップする彼女をなだめようとコンビニへ車を止めると、彼女は車から降りて、ちょうどそこにいたタクシーに乗って行ってしまった。車内はオーデコロンの甘い香りが充満していた。
 オーバーヒートの兆候として、クーラント液漏れがある。甘い香りのクーラント液が車内に匂った時は注意しなければならないが、陽介は完全にそれを逃した。話を聞いた友人は、もう一つそこへ付け加えた。
「お前の車ジュリエッタだろ? イタリア娘の嫉妬だよ」
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