第99話 にほひ來る

文字数 1,048文字

 十代の夢見心地な物が並ぶ部屋。寝付けなくて起き上がった滝澤美穂子は、暗い部屋を見渡しながらあえて時計を見なかった。大して進んでいないはずの眼を閉じていた時を知ったところで何も意味はないと思った。それよりも美穂子は、今の世界が気に掛かった。
 パジャマの上からコートを羽織った美穂子は、空に近い自宅マンションの屋上へと上がった。
 時折流れる強い風が白梅の見る夢のような香を運び、月は雲と戯れながら、春の気配は至る所でざわついている。渇いた唇を少し舐めた美穂子は、春の味を確かめながら、風の吹く方を見つめた。
 この眺めに似合う音楽を探して美穂子は再生した。イヤホンから流れるオルゴールのようなイントロは、美穂子が人生の最後に聴きたい曲だった。この曲を聴くと美穂子はいつも涙が込み上げ、泣きながらいつか死ぬ時のことを考えた。これは美穂子の小さな秘密だった。
 描き掛けの油彩画のような夜景は、明日、また明日と完成は引き伸ばされ、永遠に描き終わることはない。変わり続けるものを描き続け、未完のまま明日を迎える。今日も誰かが人生の最後に眺める夜景へ筆を落とし、星を一つ描き入れる。明日もまた、他の誰かが描く夜景に星が一つ瞬く。靡く髪を押さえながら、美穂子は過ぎ行く夜景を何一つ見落とさないように潤んだ眼で眺める。
 楽しみにしていたことは次々と奪われていく。誰かを恨む考えは美穂子にはなかったが、生きることで見なければならない不条理は、悔しくてもどうすればよいか分からなかった。もう少しだけ、あの夢のような日常に浸っていたかった。もう戻れないと分かっていても、今となっては幻にも思える甘い夢を見ていたかった。
 雨雲は風に乗ってやって来る。いつも同じ方角からやって来る。弱い雨は優しく語り掛ける。いつも同じ言葉を投げ掛ける。雨粒は詩となり、世界は言葉に満たされ、去り行く後ろ姿を美穂子は見送る。
 枕に顔を埋めると髪に染み込んだ春の風が漂い、冷え切った身体が温まる。美穂子を呼ぶ声が聴こえる。夜景の向こう側から、雲の向こう側から、音楽の向こう側から聴こえる。眠りへと落ちる瞬間の至福を知る者はなく、全ては同じ眠りの中へと入ってゆく。美穂子もまた同じ夢の中へと入ってゆく。
 目覚めた時、新しい日の中で昇る朝陽に照らされた都市は輝き、晴れ渡るこの世を祝福する声がこだまする。明るさと喜びに満ち溢れたニュースが世界を駆け巡り、まだ寝ぼけた頭でそれを知る。きっと過ぎ去った月日を思い返しながら、少しだけ美穂子は笑うだろう。
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