第16話 年も經ぬ

文字数 1,034文字

 叶わぬ恋と知りながら、杉浦清は観音に祈りを捧げた。あくる日も、またその次の日も、清は一心に観音に祈り続けた。もし、そんな清の姿を見た人は心を打たれたかもしれないが、清が恋をしたのは、まさにその観音菩薩像そのものだった。
 清と観音との出会いは、偶然インターネットで見掛けた一枚の画像だった。座して艶めかしく右膝を突き上げ、その膝が支えるように添えられたメランコリックな右腕、薄く開いた妖艶な眼の危うさに清の心を鷲掴みにされてしまった。
「ああ、なんて美しい……」
 もう何も手に付かなくなった清は、せめて直接その姿を見てみたいと、観音が祀られている寺へと足を運んだ。
 恋へと迷わず走る清に世の動向など気付けるはずもなく、門前まで行ってようやく拝観が時世の影響で中止されていると知った。困難もまた恋の定めだと、清は再開される日を心待ちにした。
 夏、ようやく門が開かれると、清は初日から寺へ参った。
「やっと、あなたに会える……」
 観音の祀られている御堂は一般拝観者にも開放されていて、清は靴を脱ぐと早速御堂へと上がった。誰もいない広い御堂で、ついに清は憧れの恋人を目の当たりにし、これは真の恋であると確信した。あの危うい眼は、清を見ていた。
 その日から暇があると清は寺へ通い続けた。迷わず御堂へと上がり、時間の許す限り座して観音に祈り、そして眺めた。初めは何も気に留めなかった寺の僧達も、さすがにこれだけ見慣れてくるとあれこれと勘ぐるようになり、ただでさえウイルス対策で頭の痛い寺は、この不振な訪問者を訝った。
 この日も、いつものように御堂の畳に正座した清は、暗い御堂の奥で眠るような観音を眺め始めた。清は幸せだった。恋人の寝顔をじっと眺めるように時は流れる。眺めれば眺めるほど観音の顔はあまりに官能的で、清はついに、その観音の唇に触れてみたい衝動に駆られた。もう清の中に引き留めるものは何もない。
 閉門を告げる夕刻の寺の鐘が鳴った。清は、ゆっくりと立ち上がり、真っ直ぐ観音が安置された方へ引き寄せられるように歩き出した。その時、御堂の柱や物陰に潜んでいた若い僧達が一斉に清に飛び掛かり、清の手や身体は捕らえられてしまった。寺の僧に掴まれ引き離されてゆくその最中、清の恋は、はたと冷めてしまった。なぜなら、もみくちゃにされ遠ざかる清が見た観音の口元は、まるで清を嘲笑するかのようだったからである。
 必死に抵抗しながら清は、恨み、憎んだ。観音のその顔を、清は絶対に許せなかった。
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