第63話 わすられぬ

文字数 956文字

「春が一番好きなの……」と小暮智之の好きな人は言った。
 その好きな人の、か細い言葉の抑揚が智之は好きだった。智之は好きな人のマスクのせいで聞こえないふりをして、もう一度と聞き返した。
「春が一番好きなの……」
 好きな人の春を智之は待ち遠しくなった。社会の不穏な動きも、この時はまだ気付かずにいた。すぐそこにまで春は来ているのだから、これまでもずっと春は変わらず来たのだから……
 春が来たら好きな人は喜ぶのだろう、それだけが智之の喜びになろうとしていた。待つほどに春は季節の領分を越え、待たずとも迫り来るはずの春への喜び。
 実際に訪れた春に好きな人は言った。
「春が一番好きなの…… でも、終わりの始まりも春なの……」
 満ち溢れた喜びに包まれるとばかり思っていた春は、ここには見当たらない。見渡す限り春なのに、智之の探す春はどこにもない。春を知ることで、春はずっと遠く、春を感じることで、春はすでに終わっていた。
 春と共にどこかへ行ってしまった好きな人、智之は春の恐れを一人で抱えながら新しい月日を迎える。振り返ろうにも、肩越しに見えた春にはもう届かない。腕の中に抱えたままの始まった春には少し陰りが見える。
 新緑は春の息吹に満たされ艶やかに輝いた。青葉の重なり合った色の奥にまで香る春の名残り。
「春が一番好きなの……」
 好きな人の声だけが今も響き渡り、智之の萎みつつある春は終わろうとしている。春から一番遠い季節は、今、始まったばかりだった。
 喜びと悲しみが同時に押し寄せる。智之は立ち尽くしたままで、全ては遠く離れゆく。木々を揺らす風が連れ去ったのか、それとも、気温の上昇と共に儚く消え去ったのか、景色や人だけが遠く離れて行く。
「春が一番好きなの……」
「僕は、春が一番嫌いになりました」
 好きな人に向けて送った最後のメッセージに智之は、そう書き残した。
 季節や時間は遠ざかり、まるで違う人を演じる智之。世界も新しい舞台へと変わり、瑞々しい葉だけが嘘のように煌めく。どちらが正面で背後かも分からない日常も、智之からどんどん離れ、やがて梅雨が全てを洗い流すだろう。それでも智之は雨に打たれながら、離れ行く景色に恨みを込めて言う。
「僕は、春が一番嫌いになりました」
 弥生から皐月への時の移ろいは戻りはしない。もう二度と。
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