第80話 さやかにも

文字数 1,040文字

 夜になると感覚が鈍るのは月のせいではないかと、石丸華子は星空に一際輝く月を睨みつけた。
「あれが全てを惑わす元凶に違いない」
 華子は戒めの意味も込めて、月に関する手記を書き始めた。眠れないからではなく、募る憎悪の根源をついに見つけたからだった。
「春の月…… これが一等凶悪だ。まさに今、頭上にいるあいつだ。白いベールのような気候を巧みに利用し、姿を朧げに映している。感傷を誘うようなふりをして、真実を明かさない。これまで、すっかりぼんやりと見ていたが、もう騙されるわけにはいかない」
 霞んだ月光が街を照らしていた。それは華子の部屋の窓からもよく見えた。むしろ、このことが華子に気付きを与えたのかもしれなかった。いても立ってもいられなくなった華子は、小さなメモ帳を片手に家を飛び出した。
 未明の街は見渡しても時折すれ違う車を除いて誰もいなかった。とにかく今は月に意識を向けようと、見上げながら華子は歩いた。
「懐へと飛び込むように月下へ躍り出てみれば明白だ。街を含めた世界が完全に崩壊寸前のところまできている。月の毒に蝕まれ、その形を維持することすら不能になりつつある。今さらだが、どうやら私も、その一部に飲み込まれ、このペンを握る手も不鮮明になりつつあるようだ」
 無風の夜だった。重い湿った大気が街を覆っている。何も見逃してはならぬと華子は月を凝視していたが、見れば見るほど曖昧な光が欺くような気がしてならなかった。徐々に首や肩が痛み始めると眼も霞んできた。立ち止まった華子は、眼を閉じて眼頭を指で押さえた。
「どうも眼が馴染まなくなってしまった。これも月の仕業に違いない。はっきりとしない眼で見上げても、そこに月光があることは確かだけど、これでは相手にすらされていないようで不快極まりない。しかし、これで分かった。こうして月はこちら側の気を削いでしまい、さも勝ったような気でいる。不愉快だ」
 長い距離を歩いた華子の視界に闇夜のビル群の陰が現れた。その高いシルエットは揺れているようだったが、屋上に明滅する赤いライトの閃光だけは、はっきりと存在を華子にも知らせていた。
「あんなところに仲間がいたなんて…… でも、もう手遅れかもしれない。月は逃げ切る時間に入ったようだ。今宵のようなチャンスは、二度と訪れないかもしれないのに、私は結局何もできずだった。失敗だ。もう永遠の夜から抜け出すことはできないだろう。月の支配からは……」
 月に憑りつかれた華子は、朧げな春の霞の中へと消えていった。
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