第82話 黑髪の

文字数 1,062文字

 倦怠感が続く日々は、角田陽子のこれまでの暮らしを一変させた。起き上がろうにも苦痛を伴い、歩けば息切れをすぐ起こし横にならざるを得ない。ウイルスの感染から快復したと告げられたところで数値だけでは判断できない症状に未だ悩まされている。口に入れる物は全てゴムやプラスチックの破片のように感じ、匂いや香りのない世界に、生きる奥行は失われたままだった。
 そして、いつか治ると信じていた陽子を容赦なく奈落の底へと突き落としたのは、脱毛だった。
「こんなに……」
 洗髪していると指に絡む黒く長い髪の多さに絶句した。足下の排水口には見るに堪えない量の髪が詰まり、その有様は陽子が昔何かの本で見た挿絵の地獄のようだった。おどろおどろしく絡み合い、美しく綺麗だと褒められた若い陽子の髪の無残な成れの果て。溜まった髪が行く手を遮るように、シャンプーの泡は未練がましく中々流れずに滞留していた。数ある後遺症と噂される症状の中で、抜け毛は陽子にとって一番恐れていたことだった。
 医者は様子を見ましょうと言うばかりで、解決策がないのは明らかだった。静かに人知れず朽ちてゆく草木のように、陽子の髪も枯れ落ちる。
「どうすればいいの…… 本当にどうすれば……」
 鏡の前の自分に問い掛けるしか陽子はできなかった。やせ細っていく髪と同様に顔の肉も削げ落ち、若々しさは失われ、老婆のように映る自分の姿を見るたびに陽子は涙を流す。やがて流す涙もないほどに心身の枯れ果てた陽子は、鏡を避けるようになった。
 これまで存在することが当たり前だと思っていた髪や味覚や嗅覚、そして眼に映る事象の全てが崩れ、陽子を支えていた身体さえもが、ただの機能不全の器でしかなくなった今、陽子はどこへ行ってしまったのだろうか……
 他者が実存を認識することで社会における立場や存在を辛うじて留めていた時代は過ぎ去り、放射能やウイルス、仮想現実や仮想通貨といった身近に増大し始めた眼に見えないものを含め、それらを取り込み大きくなった、すでに新たな秩序の下に回り出している今の世における陽子のような人の姿はしていても、その機能や個性、感情を失いつつある生命を、この先の人類は認めることはできるのだろうか。陽子は奇しくも早くしてそちら側へと行ってしまったのかもしれないが、決してこの世からいなくなったわけではなかった。
 身体の落ち着いたある朝、陽子は鋏で髪を短くなるまで切り落とすと、剃刀を頭皮に当てた。決して鏡は見ず、手の感触だけを頼りにして。
 泡にまみれた短い黒髪は、排水口へと流れ落ちてゆく。
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