第43話 旅びとの

文字数 1,083文字

 錆の浮き出た階段が歩道橋を両側から支え、真下の大通りには途切れることのない車が流れている。この駅と住宅街とを繋ぐ歩道橋が空港の連絡橋さながらの光景だった早春までのことを江田順一は懐かしんだ。
 歩道橋のたもとには一軒の小さなバーがあった。単身者が多く住むこの地域に数年前オープンしたこの店は、会社帰りの社会人や大学生といった常連客の憩いの場として細々と営業していた。来るものを拒まず、適度な距離で接する都会人同士の気遣い、順一もそんな雰囲気を気に入った常連の一人だった。
 そんな近所の人しか知らない都会の片隅へ、ある日を境に外国人旅行者が来るようになった。たまたま舞い込むような観光地でもなく、不思議に思った順一が得意の英語で話し掛けると、近所の民泊に宿泊しているのだと言う。
 日本への渡航者の増加により民泊の利用者が増すと、バーの売り上げも伸びる一方だった。ネット上の旅行者口コミサイトでのこのバーの評判は高く、住宅街の小さな店の人気の理由を同業者達は不思議がった。
 旅行者の交流の場となった最大の要因は順一だろう。彼は旅行会社に勤めていたので観光には詳しかった。さらに英語でそれを説明できたので、自然とバーは夜間観光案内所と化していった。仕事を終えた順一は急いで帰り、次はバーへと出勤するかのように、ほぼ毎日バーへ通った。いつしか順一の飲み代はマスターの計らいによりタダになった。
 朝、駅へと向かう順一の前にはのんびりと歩く大きなスーツケースを転がす旅行者達がいた。二日酔いの順一と旅行者は朝の挨拶もそこそこに重い荷物を協力しながら持ち上げると歩道橋の階段を上った。そして渡り終えると、いつもそこには彼らの笑顔があった。昨夜の話を思い出してふざけたりし、ついうっかり話し込む順一はいつも慌てて駅まで走った。酒の残った頭で考えた順一の外国人旅行者向け企画やサービスはヒットした。彼らに必要なことや、興味を引く最新の情報が順一の手元に毎日のように入ってくるので当然だったが、同僚は突然人が変わったように業績を伸ばす順一を妬んだりした。
 過ぎ行く毎日がとても短く感じるぐらいに順一は充実していた。春が来るまでは。
 梅雨、仕事帰りの歩道橋の上には人が誰もいなかった。路面の水溜りを切り割くタイヤの音は絶え間なく、傘を打つ大粒の雨の音、扉の開け放たれたままのバーへと順一が入ると客は一人もいなかった。
「順一くん、残念だけど、店、畳むことにしたよ」
 夏にひっそりと閉店したバーの後には、秋になってもテナントが入ることはなく、暗い店を覗いても窓ガラスの中の順一しかいなかった。
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