第9話 さむしろや

文字数 1,053文字

 寒い夜に沈む薄い布団が冷たいとまた母が言い出したので、横山奈緒美は母の狭い布団へ潜り込んだ。母が寝間着として好んだ安っぽい古着のポリエステル製長襦袢。その和柄の鮮やかな長い袖に抱かれた奈緒美は、泣き疲れた母が眠りに落ちると、そっと布団から抜け出し母の顔を見つめた。
「お父さんの夢でも見てるのかしら……」
 奈緒美は父を知らない。写真すらなかった。母が淋しくなると語り出す昔話しだけが、奈緒美の父の全てだった。古い鏡台に映る自分の顔は母に似ていなかったので、この顔によく似た男性の顔を思い浮かべたりもした。父のこととなると悲観的な母とは対照に、奈緒美は始めからいない父という存在をただ不思議に思うだけで、母のような親という感じもしない。父のことを考えていると眠れなくなった奈緒美は厚い服に着替えると、母を起こさないよう静かに扉を開け未明の街へと出て行った。
 奈緒美の通う中学校は生徒のアルバイトを禁止していた。しかし、母子家庭の苦労が少しでも楽になるのであればと、担任の若い男性教師は奈緒美の朝刊配達を黙認した。彼もまた母子家庭に育った人だった。
 朝刊を配り終えてもこの季節の空はまだ暗い。奈緒美はいつものように近所の神社へと立ち寄り、暗い境内のお社に向かうと日頃の御礼と母の幸福を願った。帰り際、鳥居の側にあった看板に骨董市の広告が掲げられていた。日付けは今日だった。
 日曜午前の遅い時間に目覚めた奈緒美は、古物が好きだった母に今日骨董市があることを知らせると、急き立てられ外へ連れ出された。
 神社の境内はマスク姿の人がちらほらいる程度で出店も少なく、思っていたような賑わいはなかった。着物の出店を見つけた母は奈緒美の手を引っ張り一目散に向かった。たくさんのハンガーに掛けられた安い長襦袢を一枚一枚手に取り柄を眺めていた奈緒美は、萌黄色の生地に見事な橋と赤や黄に色付く紅葉の低山の画が入った一枚を見つけた。
「お母さんの誕生日も近いし、プレゼントしたらきっと喜ぶわ」
 一通り見終えた母にこっそり買った襦袢を渡すと母の眼に涙が溢れた。
 神社を後にした親子は、電車に乗って遠い町までやって来た。母の手に引かれ、しばらく歩き辿り着いたのは、大きな川に掛かる橋のたもとだった。その側に今はもう取り壊されたアパートがあり、そこに母は昔住んでいたのだと奈緒美に告げた。この橋の向こうへと消えていった本当の名も知らぬ父の後ろ姿、最後に見た秋の光景と共に。
 橋のたもとの親子は、それぞれの父を想う。秋晴れの午後のことだった。
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