第78話 思ひ出づる

文字数 922文字

「ご婦人、いかがなされました」
 門前で河野薫が振り返ると、黒い着物に身を包んだ老僧が立っていた。
「これは、大変失礼致しました。このようなところに立っておりますと、邪魔でございますわね」
「いえ、かまいませぬ。それよりも、何か御用がございましたか」
 閉ざされた古い山門の前に立つ年老いた和服姿の二人。道行く者が窺えば、おそらく旧知の仲に見えたに違いない。土塀を越えて垂れ下がる柳もまた風情を醸し出している。
「用なんて、とんでもございません。近くまで来たもので、少し立ち寄っただけですので……」
 足早に立ち去ろうとする薫を老僧は引き留めるように答えた。
「せっかくですので、どうでしょう。お茶でも飲んでいかれませんか」
 成り行きで境内へと上がり込んだ薫は、普段であれば丁重に断るであろう誘いに応じた自分を年甲斐にもないと恥じた。
 招かれるままに庭が観える部屋へと通された薫は、用意された座布団に腰を下ろすと草木を眺めた。微かに香る焚かれた白檀の残り香は、開け放たれた部屋へと流れ込んだそよ風が掻き消し、代わりに苔むす瑞々しさを運んできた。全ては突然の出来事であり、庭や香りに一瞬心を奪われても、我に返ると恥ずかしさが込み上げた。
「お待たせ致しました。皆、出払っておりまして、お相手もせずに大変失礼なことです……」
 差し出された丸盆には茶と菓子が行儀よく載っていた。盆を挟み座布団を敷いた老僧は庭の説明を始めた。
「失礼ながら、つかぬことをお伺いしますが、なぜ門の前におられたのです。何かございましたか」
 薫は動揺を茶で流し込んでから話し出した。
「随分前のことです。若い頃、こちら様の前をよく通ったもので、夕刻の鐘の音を思い出し、つい懐かしさのあまり立ち止まってしまい……」
「そうでしたか。昔のこととなると、私の撞いた鐘かもしれませんな。当時は下手だと随分叱られましてね。拙い音をお聴きになられたことでしょう」
 辞すると薫は一気に緊張が解け、思い掛けない再開を噛み締めた。勤め先の帰りによく見かけた初恋の修行僧の面影は、今も変わらなかったのである。
 数えるほどに少ない残りの鐘の音。残響を後にし、薫は終わりゆく人生を待つだけであろう…… 待つだけであろう。
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