第39話 ふかき夜の

文字数 950文字

 春の夜に最後の一滴、日本酒はお猪口にピチョンと落ちる。肴も酒も尽きた宴の後の閑散としたテーブル、テレビの賑やかなバラエティの笑いだけが虚しい。飯村和美二十一歳の誕生日はもうすぐ終わる。冷蔵庫の中を覗いても自分の心を覗くかのように空っぽ、昼間に届いた友人と母親からの二通しかないお祝いメッセージだけでは和美の心を満たすには足りなかった。
「酒もなければつまみもない…… 誕生日、明日も休みなのに彼氏もない…… 和美は不幸、不運、不遇だああ」
 独り酔っぱらう和美。コンビニへ酒を買いに行こうと羽織るコートの下は高校時代の苗字入りのジャージ。玄関に溢れた酒の空き瓶をいくつもなぎ倒しながら、千鳥足のつま先が靴を捉えるのは難しい。それでも和美はノーメイクとボサボサの髪を隠すキャップだけは忘れることはなかった。
 コンビニへの道すがら、人の気配もない夜の世界に生暖かい春の風が吹く。和美の気持ちは益々緩み、行動は大胆になる。
「暑いのじゃ。コートが暑いのじゃ」
 ボタンを外したコートを肩からずり下ろし、あらわになったジャージの胸にはローマ字でプリントされた母校の名が躍っている。酒なのか、春なのか、湧き上がる妙な気分の和美の足、放課後に練習したダンスを思い出したかのように踏むステップは、もつれて転んで尻餅ドスン。
「痛っいな、ムカつくな、いったい何なの」
 あぐらをかいた和美が見上げたそこには夜桜一本、月一つ。
「これマジ風流、ってやつ」
 この一連の奇妙な行動を遠くから見守っていた警察官は、自転車を押しながら和美に近付いて来た。
「こんばんは、お姉さん。マスクもしないで、こんな夜遅く女性一人でこんなところに座ってると危ないから、立とうか」
「ああっ、アンタ誰」
 早朝の警察署には深々と頭を下げる和美がいた。高校のジャージを着た真夜中の酔っ払いは警察官に散々絡んだ挙句喚き散らし、保護という形でパトカーに乗せられ警察署に連れて来られたのだった。和美は何一つ覚えていなかった。
 心身共にボロボロだった和美が家に着くと、今さらながら携帯電話を置いて出ていたことに気付いた。そして、友人からのメッセージが一つ。
「遅くなってゴメン、誕生日おめでとう。一人で飲んでるならお酒はほどほどにね」
「時すでに遅し」と、和美は返信した。
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