第67話 この頃の

文字数 932文字

 木枯らし吹いたと、学校帰りの子供達の集団は秋月弘子の側を騒ぎ立て駆け抜けていった。確かに冷たい強風が今日は大通りを吹き抜けて、弘子の眼に舞い上げた塵を残していったのはついさっきのことだった。
「痛っ、イタタ……」
 ゴロゴロとした感触が眼球を圧するようで、コンタクトの据わりも悪く弘子は思わず指を目尻に当てようとして思い止まった。
「ああ、さすがに手を洗わないとダメか」
 片目のままで見渡す視界は狭く、秋晴れの太陽は午後の盛りに光を浴びせかけている。薄目を開けながらウロウロ歩くたびに瞼の裏で沁みるように痛む塵。眼から溢れ出る涙。
「あっ、すいません」
 おぼつかない足取りと死角の多い今の弘子にとって、街中をまともに歩くのはままならなかった。
 ようやく見つけたコーヒーショップに入るとまっすぐ洗面所へと向かったが、あいにく先客が入っているようで、扉の前で弘子は待ちながら店内を眺めた。大勢の人のために揃えられた座席はおそらく間引かれていたようだがほとんどは無人で、等間隔で余裕を持って置かれた椅子とテーブルだけが無駄に広い店内を占めていた。本来あるべき姿でいられないのは、人も椅子も同じだと弘子は思った。
「ああ、お待たせしてすいません」
 扉の中から出てきたのはスタッフで、清掃を終えたばかりの洗面所からは透き通るような爽やかな芳香剤の匂いがした。
 手を念入りに洗った弘子は鏡に顔を近づけ下瞼を指で押し下げると、ずれたコンタクトと黒い塵が現れた。少し手こずりながらも何とか元に戻った視界はようやく弘子に安堵をもたらしたが、同時に疲れもどっと押し寄せた。片目だけ崩れたメイクはやけに可笑しく、弘子は鏡に映る自分の顔に馬鹿馬鹿しく込み上げてきた息を吐いた。
「アメリカーノをお湯少なめで、それと…… チョコレートクッキーください」
 広い空間にぽつんと座った弘子は両眼で見えるからか、やけに広く感じる店内を淋しく感じた。人々の声も姿も失った街の片隅で、苦い珈琲とクッキーの甘さだけは以前のままだったのが救いのように思えた。
 BGMで流れていたトリオ編成のジャズは、哀愁を誘う秋の光のようなメロディを奏でている。弘子の眼には、再び涙が溢れてくる。
「ほんとに今日は、よく泣くね私……」
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