第59話 たちばなの

文字数 1,031文字

 陽の長い一日が終わろうとしている街角に、その花は揺れていた。爽やかな淡い水色の薄い生地のスカートは、歩を進めるたびに軽やかに舞い上がり、至る所にプリントされたイラストの白い花が揺れている。これまでと違う暗然たる今年の夏に……
 そのスカートの女とすれ違った柳沼英司は、振り向いて去り行く後ろ姿を見送った。
「夏の雪……」
 女の白過ぎる肌の色もまた、そう思い起こさせたのかもしれない。それでも、スカートの白い花の与える印象の方が明らかに英司の心に雪の幻影を降らせた。
 暑さの盛りは過ぎた時刻ではあったが、ここまで歩いてきた英司は立ち止まったことで汗が大量に噴き出した。ハンカチで首筋に流れる汗を拭いながら、見えるはずもない夏の雪が、その女の姿が消えて見えなくなるまで、夕陽に照らされた英司は街角に立っていた。
 数日後、別の街角を歩いていた英司は、ショーウインドウの中にあの夏の雪を見た。スラリとしたマネキンの腰にはあの花柄のスカートが着飾られ、英司の脳裏にあのちらちらと降る季節外れの夏の雪が再び思い起こされた。
「表のショーウィンドウの花柄のスカートをいただけますか」
 店内には英司の他に客はいなかった。接客した女性店員は、英司に尋ねもせずプレゼント風の簡易な梱包をした。
 家に帰った英司は袋から包みを取り出すと梱包のリボンを解き、スカートを眼の前に掲げ持ってみた。ようやく手中に収めた軽い生地の手触りは想像以上にしなやかだったが、それは英司の望むことではなく、このスカートが見せた雪の幻影を英司はもう一度確かめたかったのである。手でスカートを振ってみても、ただ、たくさんの白い花が柔らかく揺れるだけで、到底それは雪のようには見えなかった。ただの夏物のスカートでしかなかった。
 この日から英治の狭い部屋の壁にはハンガーに掛けたスカートが吊るされた。朝に目覚めたとき、帰宅した暗がりの中、遅い夕飯を食べながら、就寝前の眠りに落ちる寸前まで、英司はスカートを眺めたが、白い花の可愛らしい模様がむさ苦しい男の部屋にあるだけで、雪の姿が現れることはなかった。
 日を追うごとに夏の雪は遠ざかってゆく。幻影は瞬間が織り成す光景であり、あの夏の夕刻にしかあの雪は降らないのであろうか。
 英司の部屋に変わらずスカートは吊るされたまま、季節は秋を過ぎ、冬に入り、年を越した。英司は、あの夏の雪のことを忘れられず、誰も知らない暗い幻影の中の白い花弁を未だに思い返し暮らしているのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み