第72話 床のしも

文字数 1,097文字

 静けさの増した夜に雪は降り出した。冷え切った屋根はうっすらと白く覆われてゆく。街は雪に包まれるように、人の気配さえも掻き消した。窓辺に佇み街を臨む大庭由華は、舞い落ちる雪が募る恨みようだと思った。眼に映る一粒一粒は自分の恨みの全て、少なくとも眼に映るこの世界だけは自分のものだと信じていた。しんしんと降る雪、静寂は余計にノイズを引き起こす。
 暗い部屋で布団に潜り込んだ由華は身体を丸め、耳を両手で塞いだ。ノイズは止むことなく由華の内側から湧いてくる。言葉でも声でもない、たった一度の逢瀬の面影が怒号のように迫り来る。無数の面影はいくつも重なり、立体的な形へと変貌してゆく。触れることのできないものほど色濃く残り、はっきりと姿を映す。決して消すことも壊すこともできない面影と対峙しながら、由華は涙を流した。涙さえも凍てつく夜のしじまに。
 いつしか落ちた眠りから覚めると、暁が白い街を照らしていた。眩い光は頭痛を引き起こし、由華は再び眠った。次に目覚めると、また夜だった。
 窓の外に雪はなく、凍ったままの恨みだけが残された。これこそが自分の本当の世界だと由華は思った。由華の内側で響き渡った面影のノイズは、氷柱の中に閉じ込められたまま、しんとしている。ようやく訪れた静かな夜。
 冬の夜が長いことに由華は安堵した。まだ終わらない冬は由華と共にあった。去って行った者は、もう戻らない。
 風が吹こうが、光が照らそうが、恨みが減ることはなかった。由華は夜になると目覚め、恨みを確かめると、明ける前に眠った。夢の中に面影が現れることもなく、もう泣くこともなかった。
 やがて夜は明けることもなく、恨みもそのままに、由華は眠ることもなくなった。誰もいない全てが凍ったままの世界は静かであった。どこまでも果てしなく恨みだけが続く。由華の抱えた面影の氷柱を軸に世界はあった。
 もうどこへ行くこともなく、明けることのない冬の夜に由華は何かをすることもなくじっとしている。この世界が無くなることなど信じず、変わることなどない静かな世界にいることを望んだ。恨みがいかに美しいかを知り、醜い面影がある限り由華の世界は回り続ける。その他のことなど思い出すこともなかった。もう由華には、それ以外のことなど必要なかった。
 それは結晶ほどの小さな世界の話かもしれない。由華が全てを決め納得したからこそ動き出した秘密の時を、おそらく由華自身が止めることはない。世の連続性から突如抜け出た世界はあるべき姿のままで永遠に存在し、知る由もない世界を探そうにも見つけることは不可能である。全ては由華のものであり、真実であることも間違いない。
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