第86話 きぎす鳴く

文字数 1,023文字

 都市は森のように奥深く、早春の霞の時を漂う。距離や方角を見失った人々、言葉を交わさず黙り込む人々、我先に出口を探して先へと迷い込んだ人々の姿は、もう見えない。何十年、いや何百年、何千年か、ここに生まれた人々の以前に忘れ去られた入口を今さら信じる人もいない。
「いつから、ここにいたんだろうか……」
 眼に見える明らかな変化の裏に流れる雄大な時間へと引き込まれた片岡若菜は、始めはそのことに戸惑った。
 仕事や家事、人付き合いといった生活に多少の変化こそあったものの、ここまで全てから離れて感じることはこれまでになく、自分は死んでしまったのかとさえ思うほど、新しい考え方が芽生えていた。
 まず、ここには安らぎがあった。執着することもなく、穏やかに過ぎ去る毎日。これまでにない優しい言葉が頭に浮かび、若菜は窮屈な暮らしの中でも、内側に広がる無限を確かに感じた。外へと広がろうとすればするほど傷付いていた自分を抱き寄せたことによって。
 そして若菜は、よく眠った。痛んだ心を休めるには、痛みとの乖離が必要だった。何も寄せ付けず、そっと痛みを庇うように眠ることで癒される心を見守った。
 若菜は、これまでの都市と、新しく見える都市はぴったりと重なりながらも、決して交わることのない隙間のようなものがあるのではないかと思った。境界線というべき隔てている差、それを跨ぐことで若菜はここにいるのではないかと。
 もし、今いるここが原初の人々が生きた世界に似た場所で、今の世界を遡ることでそこへ辿り着くことができるのかと若菜は考えてみたが、そもそもどういう世界があったのかさえ分からないので、それを確かめることは不可能だった。では、今感じるこの二つの差に生じる違和感は、若菜自身が生み出した何かによるものなのだろうかと考えてみたが、それも確かめる術がない以上、それも無駄な試みであった。
「何なんだろう、なぜこうも突然、変わったのだろう」
 若菜を取り巻く生活は大きく変化することもなく、周囲の人々や仕事もこれまでのように回り、若菜自身もそのサイクルにはまってはいたが、若菜の疑問は解決しないまま、日々は過ぎていった。
 どちらが本当かを決めるのは若菜であり、若菜は自分で決めたことを知らず、真後ろにあった入口であり出口を踏み越えたのだろう。都市の幻像は崩れ去り、華やかなもの全てが朽ち果て、嘆きの声は止んだ。そして何よりも、生まれてこの方、晴れることのなかった霞は消えていた。
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