第42話 立ちのぼる

文字数 975文字

 読み終え閉じられた本が、そっと机の上に置かれた。背表紙に貼られた図書館のラベルが少しめくれ上がっている。
「どれほどの人の手の中で、この本は嘆いたのか……」
 表紙の凄惨な白黒写真を石毛さゆりは、しばらくの間じっと見つめていた。
 八月上旬の図書館は例年通り効き過ぎた冷房で肌寒かった。入口に置かれた消毒液でさゆりは手を揉み、借りていた本を返却すると、鞄から取り出した薄手のカーディガンを羽織った。真っ直ぐ小説の本棚へ向かう途中で、一角に設けられた戦争関連の特設コーナーがさゆりの眼に留まった。その中の一冊もこちらを見ているように感じた。
 ただ一冊だけ借りて帰ったその本を、何度もさゆりは開こうとしてみたが駄目だった。拒絶しているのは自分なのか、それとも本の方なのか、そんなことを考え過ごした八月。
 今年の八月に華やかな夏の色はなく、あの一冊の本の表紙のように白と黒の感情の底を這っているようだとさゆりは思った。世界的な行動の抑制、増加する感染者、そして、たくさんの死。
 この非常時をどう受け止めてよいのか、さゆりには判断がつかなかった。日に日に目まぐるしく変わるこの世界の眼に見えない恐怖は、さゆりの心を大きく揺さぶった。
 本は、さゆりの机の上にあった。去年でもなく今年のさゆりの手元にあった。必要な本は然るべき時に出会うとさゆりは信じていた。そして、ついにさゆりはページを捲る。
 刷られた写真や言葉は弾丸のように容赦なくさゆりへ突き刺ささり、胸は痛く、絶望しかなかった。さゆりは初めて戦争と真正面から向き合った。戦争の歴史、それはすでに無いようで、決して途切れず確かに今年へと続いていた。当時とは環境の違う現代で、この状況の受け止め方をさゆりは未だ掴めずいたが、遠い過去から届いた叫びや悲しみが今はさゆりの胸の中にあった。さゆりは、もっと生きて、生き抜いた世界を見てみたいと思った。
 八月十五日土曜日快晴。さゆりは図書館へ行くために家を出た。夏の真っ青な空に太陽は高く、紺色の日傘を差すさゆりの他に人気はなかった。終戦当時のこの日の人々の心情、その思いを巡らし歩いていたさゆりは立ち止まり、ふと振り返った。歩いて来た道には誰もなく、南方の青い空に立ちのぼる純白の入道雲をさゆりは見た。
「あの夏の日の空は……」
 七十五年前の路上に、さゆりは佇んでいた。
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