第60話 かへるさの

文字数 910文字

 季節に感情を与えるとすれば春はどうだろうか、と河野久美子は考えながら川縁を独り歩いていた。本来であれば暖かな陽の光に誘われ多くの人出に賑わうはずの春の小川に人気は全くない。こうして独りになれることは、今の久美子にとって必要なことだった。
 久美子が幼い頃、この川の近くに暮らした小さな家があり、たびたび家族で川へ散歩に出掛けた。年子の兄は父の足にまとわりつきながら前を歩き、その後ろを久美子は母の手に引かれ歩いていた。
「お母さん、お水、白いよ」
「久美ちゃん、あれはお花。小さいお花がいっぱい水に落ちちゃったの」
 川の淀みに浮いていた花をウツギと知ったのは、久美子がかなり大きくなってからのことだった。ふとしたことがきっかけで調べたのだったが、長年忘れていた幼い頃の母の記憶は、その時、急に浮かんできたのだった。
「ほら、久美ちゃん。水が揺れてるでしょう。風が吹いてるよ」
 それまで風は見えないものだとばかり思っていた久美子にとって、波立つ水面は驚きだった。その場に立ち止まったまま動かない久美子は、じっと波立つのを眺めていた。
「ずっと動かず見てるから、みんな困ったんだっけな……」
 昔と比べ随分と整備が進んだ川には、もうウツギはなかった。そればかりか、川の名前こそ同じで今も同じ場所を流れてはいるが、規則正しくコンクリートで固められた姿に以前の面影は全くといってよいほどなかった。
「ほら、久美ちゃん。行くよ、おいで」
「次の風が来るまで待って」
 久美子はベンチに腰を下ろし、昔のことばかりを思い出すように、対岸の一点を見つめていた。
「もう遠いな……」
 ポケットの中で携帯電話が震えた。兄からの着信だった。
「今さっき、母さん無事に火葬したから」
 遠くに住む兄の許へ身を寄せていた母。移動の自粛や感染が拡大していた都市に住む久美子が母の最期に立ち会うことは叶わなかった。
「昔さ、住んでた家の近くに川あったでしょ、今そこに来てるの」
「ああ、お前が全然動かなかったとこだ」
 兄と一通りの話をし電話を切ると、生温い南風が久美子の髪を巻き上げた。久美子は髪をかき上げると、勢いよく立ち上がった。
「さてと、風が吹いたから、帰るとするかな」
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