第74話 白妙の

文字数 997文字

 マンションの近くまで来ると、自宅の部屋にはすでに明かりが灯っていた。渡部達也は大きく息を吸い込みゆっくりと吐き出すと、重い足取りでエントランスへと入った。
 エレベーターは勢いよく上がるが達也の気分は下がる一方で、時間がやけに長く感じる。自宅の階に到着しても降りることができず、そのまま一階へと戻ってきた。
「あら、渡部さん、こんばんは」
 一階で隣人に出くわした達也は気まずさに満たされたエレベーターで、また自宅の階へと上がっていった。
 さすがに今度は降りないわけにもいかず、隣人と一緒に降りると、今度はドアの前で部屋へ入るのに躊躇した。ネクタイを緩め、思わず漏れる溜息は、晩秋の冷え込みで白んでいた。
 無言で家に上がった達也を待ち構えていたのは、ダイニングに無言で座っている妻だった。足下に置かれた仕事の鞄、ジャケットを脱いだ白いシャツ姿、まだ帰宅して間もないようだった。鞄を下ろし、ジャケットを脱ぎ、向かい合って椅子に腰かけた達也は話を始めた。
 互いに勤める会社は世の動乱の影響を受け無理難題を抱えていた。せめての平穏と憩いを求めたい家庭は、それ以上に荒れている。些細な行動が相手を苛立たせ、言葉尻がいちいち気に掛かる。結婚という制度の下、どこへも行けない二人は、深みにはまり仕事のような関係に陥り、自己主張で応戦するまでになっていた。殴り合いこそないが、すでに二人は疲弊し尽くしていた。
 話し合いの結果は離婚に至り、とりあえず今晩から達也はホテルで暮らすことになった。数着のスーツとネクタイをまとめると達也はワイシャツの替えがないことに気付いた。洗濯機の中から着用済みのワイシャツや下着、靴下を掻き集めると鞄に詰め込み、最低限の荷物を抱え部屋を出た。
 エレベーターに乗り込んだ達也は、一瞬で一階に着いた気がした。
 夜なのに出勤するように駅へと歩きながら、スーツ姿で大きな鞄を抱えている姿は滑稽だと達也は思った。いつもはすれ違うのを眺めるだけの夜の上り電車は空いている。大きな鞄を空いた座席の横に下ろすと、達也は明る過ぎる車内電灯を見上げた。
 会社近くのホテルで長期滞在の手続きを済まし、シャワーを浴びた達也は館内のコインランドリーへ向かい洗濯をした。乾燥を終え取り出したワイシャツの袖が絡み合っているのを解くと一枚は妻のものだった。それは、良くも悪くも二人の関係を表しているかのようだった。
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