第7話 花の香は

文字数 989文字

 花をつけた梅の枝は、幼子の黒髪を彩る派手なかんざしのようだった。日課にしていた昼食後の散歩の途中だった年老いた内藤稔は、今さらなぜそんなことを想うのかと不思議に感じながら立ち止まると、何かそれを知っていたような気がしてならなかった。まだこの頃は道行くマスク姿の人々も、このマスクもせずただ梅を見上げる老人のことなど気にも留めなかった。
 稔の家にはテレビもラジオもなく、眼が悪くなってからというもの新聞の購読も止めてしまった。世を知らず子供も身寄りもない彼にとって、唯一の親族だった妻も数十年前に先立ち、人と話しをすることもなく先もさほど長くない人生を独り暮らしていた。
 そんな稔が今さら何かを特別に想うことは珍しく、さっき見たばかりの梅の幻影が帰宅後も付きまとい頭から離れることはなかった。
「どこかで見たような気もするが、それはいつのことだったのだろうか……」
 どうしても引っ掛かるそのことを忘れることができず、畳に座り想いを巡らした。
 記憶の道を遡る稔の頭の中に、昔の楽しかったことや悲しかったこと、これまでに出会い別れた人々の顔が浮かびはするものの、あの梅の手掛かりになりそうなことにはどうしても辿り着くことができなかった。様々な記憶を追っているうちにいつしか仰向けに寝転んでいた稔は、そのまま午睡へと落ちていった。
 陽が暮れて少し肌寒く感じた稔は、窓が夕焼けに染まるのを見た。その色にどこか懐かしさを覚え、梅の花によく似ていると思った。移りゆく色彩に、ふともう一度、あの梅を見たい衝動に駆られた。久しく忘れていたような感情の躍動に赴くまま、急いで上着を羽織り玄関の戸を開けると、そこには妻が立っていた。その姿は若い頃の面影を宿しながら。
 眼が覚めると夕焼けが室内を染めていた。稔は、まだ夢の続きを見ているような気もしたが、硬い畳の上で寝ていた痛みがはっきりと身体中に走った。そして、まだ梅のことが気掛かりで、やはり、もう一度だけ見に行こうと上着を手に玄関へと向かった。
「この歳で、期待をするようなことがあろうとは……」
 戸を開けると流れ込んだ風は、懐かしい香を含んでいた。
「ああ、そうだった」
 部屋に戻った稔は押し入れの奥から可愛らしい和柄の貼り箱を取り出すと、蓋をゆっくりと開けた。
 そこには、妻が幼い頃から大切にしていたものと一緒に梅の花を散らしたかんざしがあった。
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