第24話 しのばじよ

文字数 1,075文字

 歓楽街に降った春雨は霧のように辺りを包む。濡れた路面に映るネオンはこの眠らない街の見る夢のように淡くぼやけている。夕暮れ、足下を濡らしながら歩いてきた中山雄介は、雑居ビルの地下にある店の鍵を開け灯りを点けた。暗闇から浮かび上がる白木のカウンター、五脚の椅子はその下におとなしく収まり、うどんと白く抜かれた藍染の暖簾が営業開始の夜九時に身をはためかすのを今か今かと待ち望んでいた。
 水を張った寸胴に雄介は手際よく切り込みを入れた昆布を投げ入れるとコンロに掛けた。最大火力の火でかじかむ手を揉みながら雄介は、昨日、江戸中期の骨董二合徳利に活けた小振りの枝桜を眺めたが、寒の戻りに蕾は眠ったままだった。天麩羅の具材の下ごしらえや生地作り、大量の青葱を刻むその一方、昆布を取り出し湧き上がる寸胴に花鰹を贅沢に撒き散らす。湯気と一緒に立ち上がるこの鰹の香りが雄介は好きだった。
 店を開けると雄介の店には様々な人がやって来た。早い時間には仕事帰りの食通サラリーマンが自慢の出汁の噂を聞きつけて暖簾をくぐり、居酒屋帰りの男達が締めの一杯を楽しみに、終電まではそのような光景がカウンターで繰り返された。雄介は一人で全てを効率的に捌き、一切の無駄がないその華麗な動きを勉強しに訪れる若者さえいた。
 時計が零時を過ぎると客足は一度途絶える。その間にも雄介は次の仕込みへと入る。足りなくなった具材を補充し、場を整え、これから始まる後半に向けて抜かりなく準備をした。
 一時を回り出した頃からぽつぽつと客が入ってくる。仕事上がりのホステスを連れ出した身なりのよい中年男達は、上機嫌で出汁の講釈を垂れるが、たいていのホステスは別の客にも連れて来られ、何度も似たような話を聞かされていた。この界隈のホステス達は、すでに雄介のうどんのファンだった。
 二時、三時頃になると、営業後の片付けを終えたホストやホステス、ボーイやママといった常連達が一日の疲れを温かいうどんで癒そうとやって来た。熾烈な競争にさらされる夜の街で、雄介のうどんは一時の拠り所になっていた。
 四時も過ぎると人もまばらになり閉店間際の五時前に一人の客が入ってきた。たまに来る近所の風俗店で働く若い女の子だった。注文もせずカウンターに顔を伏せ泣き出したかと思うと寝てしまった。雄介は暖簾を下げると片付けを始めた。一杯分の材料を小鍋に残して。
 目覚めた女の子はうどんを食し、雄介にお礼を言うと、陽が昇り始めた街に消えていった。表まで見送った雄介は、
「辛かったら振り向かずに逃げるんだぞ」と包んだ桜の小枝を手渡し言った。
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