第93話 あかつきは

文字数 1,051文字

 ロウソクの火は灯りを消した風呂場の壁に物の影を揺らめかしている。壁に大きく映し出されたシャワーヘッドの影は、物思いに耽る人の頭のように垂れていた。浴槽に浸かりながら澤千香子は、眼を閉じてこの一年を振り返る。眠れない冬の午前二時のこと。
 この風呂場のように暗い日々の中を過ごしながら、千香子の心もロウソクの火のように揺れている。あの震災の時に感じた物理的な不安、計画停電で点したロウソクの灯りには、揺らぎの中に火の温かみと希望のような安心を覚えたが、見た眼には変化のない現在の不安には、揺らぐロウソクの火はむしろ何も定まらない胸中のようである。
 いたずらに水面から上げた手に滴る水滴は、甲高い音をいくつか落としながら、小さな波紋を起こした。遅れて落ちる最後の一滴、後からやって来た静寂に抗うように、千香子は腕を支えていた力を一気に抜いた。大きな音と水しぶきを立てた手は湯の中に落ち、より大きな静けさだけを残した。
 ぼんやりと考えてみても、印象に残らない一年だったと千香子は思った。巨大過ぎた一年の一日一日の印象はあまりに希薄で、似たような味気ない日ばかりが続いているようだった。二転三転するニュースの情報もいつしかフラットな振れ幅のない範囲を行き来しているだけのようで、浴槽の中の小さな波のように狭い所を行っては帰る、そんな代わり映えのない一年。
 溶けたロウに湛えられた中央で先端の黒くなった芯は火を揺らす。千香子は時折揺れる火をじっと眺めていると、縁の低くなった所から張力に耐えきれなくなったロウが流れ落ち、急速に固まりながら一筋の跡を側面に残した。あっという間だった。
 高さと勢いを増した火は、その長くなった姿をくねらせるように揺らした。火の上へ指をかざしてみたくなった千香子は、水気を切った人差し指を近づけてみた。この熱さの類の鋭い感覚さえも、鈍くなった今の日常にはありそうにもなかった。
「痛覚さえも失い、叫ぶ言葉はもうすでになく、ただ燃え尽きるのも分からず、灰となる中で、煙の行方をぼんやりと見上げるだけか…… 人間さんは……」
 随分長く千香子は湯に浸っていた。湯も冷えてしまった浴槽の中、千香子は膝を抱えるようにして丸めた身体を力一杯抱きしめた。水分に溶けて散らばった身体を元に戻すかのように。
 湯から上がると身体中から滴る水滴が音を立て静寂を破り、すぐに冷気が纏わりつく。蛇口から放たれた熱い湯が鏡を見る見ると曇らすと、そこに映し出されていた千香子の顔もロウソクの薄明りの中で消えていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み