第90話 移り香の

文字数 1,088文字

 記憶に移りし香の中に映る面影。それは、どこから来るのかと飯沼友宏は考えている。突然始まる短い記憶が現実の領域を超え、頭の中に描かれる仕草、華麗な所作に隠れた恥じらいの挙動、空間を満たす香…… 手を取り引き寄せられる手首、耳元に聴こえ、肌を滑り落ちた衣の軌跡。それらに宿る香を友宏は覚えもなく記憶に移していた。現実よりも、豊かな記憶の香を。
 友宏の記憶の中にだけ香り立つ女の面影は、短い動画を観るように幾度もフラッシュバックする。時に季節の花が舞い散り、春夏秋冬それぞれの場面を背にし、同じ仕草を繰り返す、決して老いることのない女と香の記憶。
 若い頃に知ったこの新しく瑞々しい香を、友宏は純粋に記憶していた。手を伸ばせばまだ届きそうな距離のその時期に、この香りが友宏のその後の運命を決めたのかもしれない。その記憶へと引き戻されるのか、自ら訪れるのか、それとも、香の方から吹いてくるのか。
 今年に入り友宏は、果たして現実と思えるものだけが全てであろうかと考えるようになった。色や質感、味に音、そして香、現実にあるもの全てが記憶によって補完されている。幼き頃からの蓄積が友宏を取り巻く空間を構築しているのではなかろうかと。また、眼に映らない外部のものばかりに怯え、惑わされ、影響を受け続けた人類の歴史の結果、内部の未知なるものを疎かにしているのではなかろうかと。
 そのような時に友宏は香を想ったが、求めても香ることはなかった。いつも記憶は思いも寄らぬタイミングで蘇る。記憶から一番遠い場所にて。
 ふとした時に香り、吹けば消え去る香りの脆さ。いつしか友宏の中で、それが何よりも大切なものになった。友宏だけのものであり、誰にも奪うことはできず…… しかし、コントロールすることのできないものを、いつまで友宏は抱え続けることができるのだろうか。不安がまた怪しく香る魅力を秘め、再会を願う気持ちがより美しさを引き立てる。香の消える瞬間が、生死に一番近いと友宏は感じた。
 マスクが当たり前となった社会は香を失い、友宏の限られた記憶の香は、より一層の働きかけを友宏へもたらした。以前よりも確実に香の現れる頻度は増し、友宏の記憶は幾重にも重ねられたように濃くなる一方だった。
 世界は一変し、友宏の狭い生活環境にも幾多の変化を及ぼしたが、強制的に断絶してゆく社会に比例するかのように、友宏は充実した生活を送っていた。
 人それぞれの記憶の中に漂う香。忘れられぬ時へと誘う記憶は、常にその時から今へとやって来るのでないだろうか。今の香を知らぬまま、かまわず時代は先へと進む。遠い過去の面影を強くして。
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