第1話 見渡せば

文字数 911文字

 今年の師走が訪れようとしていた。当たり前となったマスク姿の人々が行き交う黄昏の駅の賑わいも、例年のクリスマスに向けた弾みに比べおとなしく、沈痛に見えるマスク姿の客達を乗せた地下鉄の車内で市田啓の眼鏡はマスクから漏れる熱い息に曇っていた。春から続く在宅勤務の日々の中、久々の会社への出勤を終えた啓は、少し寄り道しようと自宅の最寄り駅より手前の駅で下車をした。
 陽の沈みかけた地上へ出ると冷たいビル風が吹きすさぶ。すっかり季節感を失った、と思いながら啓は薄手のコートの襟を立てて歩き出した。
 駅前は以前よりも人気が少なく、老舗の煤けた赤提灯をぶら下げていた居酒屋は店を畳んでいた。次の借り手も決まらず掲げられた不動産屋の「空きテナント」の真新しい看板の赤い文字だけが静かな往来の中で際立っていた。啓は、その先にある路地へと入ると、ちょうど顔の高さに備え付けられたエアコンの室外機が吐き出す温風を浴びた。壁や道に染み付いた古びた食用油の匂いの交じった風、壁沿いを走り抜ける肥えた鼠、そういった都市の影すら今の啓には懐かしく感じられた。
 路地の壁の中に鍵の掛かっていない秘密の扉があった。啓は辺りを気にしながら扉を少し開け身体をねじ込ませると、音を立てないようにそっと鉄製の非常階段をビルの屋上まで上がった。
 啓は、ここの屋上からこの都市の巨大ロボットのようなビル群を眺めるのが好きだった。力強く屹立したビルの姿に憧れ、故郷を離れ都会へとやって来た。久しぶりの光景に胸が高鳴るのを抑え屋上に飛び出したが、
「えっ……」
 啓の眼に飛び込んだのは、晩秋の薄紫色に染まりかけた夕焼けの中で遠く、ただ佇んでいる輝きを失った巨大な建造物群だった。桜の散ることも、紅葉の色付くことも知れず過ごした日々の果てにあったのは、あまりに無残な都市と自身の感情の衰退だった。
 手摺に頭を垂れながら眼を閉じても平坦なイメージだけが現れ、以前の輝きを含んだ光景をはっきりと思い出すことはできなかった。
「これまで美しいと信じられた世界はすでにない…… 僕もまた君達と同じなのだろうか」
 ぼんやりと眺める夜景の底はどこまでも深く、啓は自分の心のようだと思った。
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