第17話 面影も

文字数 1,092文字

 鐘の音が鳴る前に多田佳奈子は眼が覚めた。まだ明けきらぬ寒い冬のベッド、隣で眠る男を起こさぬように佳奈子は羽毛布団から静かに出ると間接照明の淡い灯りを点した。脱ぎ散らかし冷え切った服、袖を通すと全身の毛穴がキュッと閉まるように引きつる肌。温もりの夢から目覚め、冷めた現実へと引き戻す服に染み付いた昨日の香水の香り。
 カーテンに閉ざされた窓の向こうに、近所の寺の鐘が響いた。男は壁の方を向いて眠っているようだった。佳奈子は手際よく簡素に化粧を整え終わると、手鏡のコンパクトを閉じた。寒々しい部屋にパチンと鳴る硬質な蓋の音。男は変わらぬ姿で寝ていた。
 ベッドの端に腰掛け、佳奈子は男のくせ毛の髪を撫でたみた。寝癖のついた毛並は元には戻らず、撫でてもまたすぐに跳ね返る脂っぽい髪の間に白い頭皮が浮かんでいる。それは隠されている二人の逢瀬の秘密のようだった。
 コートを羽織った佳奈子はカーテンを少し開いたが、まだ空は暗く始発のバスにはまだ早かった。身支度を整え手持ち無沙汰な佳奈子は、薄暗いベッドルームの椅子に腰を掛けると男の寝姿を眺めた。囁くような声で男の名を呼んでみたが、寝室に響くことなく虚しく消えてゆく。もう一度、名を呼んでみても、それは変わらなかった。
 始発のバスがやって来て、それに乗って佳奈子は自宅へと帰るだろう。そして、シャワーを浴び、着替え、会社へ行くと、何事もなかったように二人は朝の挨拶を交わす。さっきまで一緒に寝ていたなんて二人が一番信じられないように。
 室内で厚着をしていた佳奈子は、ついその温かさに誘発され押し寄せた眠気に落ちそうになった。果たしてそれは温かさだけだろうか、ここを離れたくない本心がそうさせるのではなかろうか。立ち上がった佳奈子は、少し早いがバス停へ行くことにした。
 玄関で靴を履いた佳奈子は、ガランとした早朝の家に耳を澄ました。いつものこの時がこうでなければ、二人の関係が今とはもし違っていたら、それは果たしてどんな人生で、それは幸せなのだろうか。色々な思いや考えを残し、扉をそっと閉めるとドアポストの中へ掛けた鍵を落とした。
 鍵が落ちる音は、静かな家に小さく鳴った。天体の星と共に昇り、沈んでゆく二人の関係、男は佳奈子より先に目覚め、佳奈子が出て行くまで聴いていた。静かに閉じられた玄関の扉が外界とこの空間を遮るだけでなく、時間の終わりをも区切る。孤独な二人は、また独りの侘しさへと戻ってゆく。ベッドから起き上がった男はカーテンを開き眼下の道を歩く佳奈子の後ろ姿を見た。東雲の薄明り。男の吐いた息が曇らす窓ガラスの中を佳奈子は遠ざかっていった。
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