第40話 あはれいかに

文字数 1,094文字

「お父さん、こちらです」
 看護師の後ろに付いて分娩室へと入ると、今まさに生まれようとしているところだった。仕事上がりで駆け付けた那須亮一には、その気迫と慌ただしさの支配する光景がどこか仕事の延長のようで、決してどうでもよいわけではなかったが、どこか冷めたように映った。むしろそれは、何もできない自分はせめて冷静に見届けようという判断だったのかもしれない、後日、そう思うことがあった。
 無事に生まれた赤子は医者の手に抱かれ、けたたましく泣き出した。そのまだ泣き慣れていない声に亮一は、ある話を思い出した。
 学生時代に郊外へ出掛けた帰り、晩冬の寒々しさが残る林の方から鳥の鳴き声が聞こえた。亮一には、その鳴き声の主が何であるかも知らないばかりか興味もなく、すでにどんな鳴き声かも忘れていたところに物知りの同級生が、あれはウグイスの鳴き声だ、と言った。さすがの亮一もウグイスの鳴き声なら知っているので、もしウグイスであれば気付いたはずだと二人は立ち止まってみたが、次はいつ鳴くかと待ってみても鳥は一向に鳴かなかった。同級生の説明によると、あれはウグイスの鳴き方の練習で、まだ下手くそな鳴き声を早春に聞くことができるというのである。よくよく考えてみれば、初めから上手いなんて確かに都合が良すぎる、と亮一は納得した。
 その後、同級生のことも、ウグイスのことも、鳴き方の練習のこともすっかり忘れていた亮一は、分娩室で我が子を見た妻の安堵の表情を前にして突っ立っていた。母子が無事であることに亮一も安心はしていたが、それよりも赤子の泣き方の下手さ加減に興味を覚えた。
 健康そのものだった赤ん坊は、よく泣いて大変だといくら妻から聞かされても、亮一が面会で訪れると気持ち良さそうによく眠っていた。妻は寝てくれて助かると言うが、亮一は泣き声を聞きたかった。病院の廊下で聞いた他所の家の赤ん坊の泣き声は、すでに立派な泣き声だった。
 退院の日、仕事を終えた亮一が帰宅すると、束の間の独り暮らしから一転、母子と両家の親で家の中は人に溢れかえっていた。そして、さっきまで泣いていた赤ん坊は、亮一の帰宅に合わせたかのように泣き止んだという。
 女達は赤ん坊を囲むように微笑みを浮かべながら名前の話題で盛り上がり、男達はしんみりと台所でビールを囲んでいた。そして、酔いの回った父親の流す涙を、亮一はその時初めて見た。ビールで嗚咽を流し込み、その静かに泣く父の姿には、長い年月を生きた人の有様があった。
 自分は死ぬまでに、あと何度泣き、どんな泣き方をするのだろうか、と亮一が考えていると、隣の部屋で赤ん坊も上手に泣き出した。
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