第53話 契りおきし

文字数 930文字

 人付き合いも決して上手くなく、はっきりとものを言う不器用な生き方しかできない長嶋麻紀子は、人に言われた細かい言葉ほど深く心に刻み、その抱えきれないほどの記憶に押し潰されそうになっていた。
 街の雑踏の中で聞こえてくる言葉に反応し、テレビの音声は次々と記憶の中の言葉を掘り起こした。ふと読んだ記事にある言葉が、その音とその姿で延々と降ってくる。麻紀子の周囲には高い言葉の壁がそびえ、麻紀子はその中に捕らわれていた。記憶の中にある言葉の檻に。
 言葉は感情を持つ。麻紀子は感情に関しては無視をした。
「感情はそっとしておけばいい。いつか自滅するのだから」
 こう思えるまでにかなりの年月を要した。
 麻紀子にとって何よりも厄介だったのは、約束の言葉だった。叶えられた約束であれば、ただの過ぎゆく結果として傍観できたが、成就していない約束には終わりがなかった。
「約束なんて、些細であれ重大であれ、辿り着けなければ肥大するだけ。年月を栄養にして」
 昨年の麻紀子はこれまでの人生の中で一番、人と接しない年を過ごした。その分、記憶の貯蔵庫にも言葉はそれほど増えることがなかった。このことは麻紀子にとって快適なことで、日常に余りある言葉は麻紀子にとっていかに無駄で気苦労しかないのかと思い知らされた。
「こんな世界を待ち望んでいたのかもしれない」
 世の生活は一変し、麻紀子にもこれまでになかった時間を過ごすことが多くなった。そこで麻紀子は色々と試すことにし、記憶の中の言葉と向き合い、戦うことを続けた。麻紀子にとっての戦いとは、言葉の上書きだった。
 これまでの麻紀子が抱えた言葉は、他人の生の声であり、それはそのまま記憶の中でループするように再生されていた。まずはその言葉のループを止める方法を麻紀子は考えた。
「一方的に殴られ続けるような言葉には……」
 麻紀子は相手の口を塞いだ。もちろん記憶の相手の口を。そして、立て続けに言い放った。
「全ての約束を守れるほど私は長く生きれない」
 こうして麻紀子は壁を切り崩しながら、あらゆる記憶の中の言葉へ決別を突きつけた。
 ウイルスと一緒だと麻紀子は思った。記憶へと入り込もうとする厄介な言葉には、マスクよりも強固な信念で塞がなければならないと。
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