第23話 花の香の

文字数 1,021文字

 自分は特別だとか、人より才能に恵まれているとか、そんなことからは無縁だと信じ生きてきた楠千夏。あなたの夢はなんですか、と問われても、考えてみたこともない。
 ワンルームの部屋に陽が射せば目覚め働きに出掛け、会話もない会社では片隅のデスクで実直に仕事を務め、夜になれば狭いキッチンで一人分の食事を作り独り布団に入り眠る。週末に会う友人もいない、食事に出掛けることもない、三ヶ月に一度、ユニットバスの鏡の前で伸びた毛先を整える。小さな小さな千夏の殺風景な世界。
 今、世は荒れ始め、人々は慌てふためいた。千夏の世界は変わることなく、いつもの道があり、いつもの電車がやって来て、いつもの食品を買い、いつもの千夏は、ただ毎日を歩き続ける。
 ある日、黒々とした髪の中に一本の白髪を千夏は見つけた。抜いた白髪を掌に置いて眺めていると、老いと、いつか死ぬ自分のことが浮かんできた。
 千夏の頭から白髪のことが離れなくなった。いつもの生活に入り込んだ一本の白髪。朝起きると鏡の中に白髪を探し、電車に乗る人々の髪の白髪を見つめ、薬局の白髪染めが眼に飛び込んで、部屋の片隅にほつれて落ちている糸くずが白髪に見えた。千夏の夢、それはいつもの平穏な暮らし、変わることのない世界、そう思った。
 週末に千夏は珍しく出掛けた。知らない電車に揺られ、知らない風景の駅に降り立ち、知らない道を歩いて、寺に着いた。閉ざされた門には拝観を断る札が掛かり、世間との一切の拒絶があった。
 呼鈴を鳴らし現れた尼僧は要件を聞くと千夏を迎え入れた。座敷へと通される間、千夏は見事な庭園も建物の間取りも何一つ覚えてはいなかった。いつもの生活とはかけ離れ過ぎて千夏の眼には全く映らない。ただ、尼僧の剃髪した頭だけが、千夏には希望に見えた。
 やがて奥から現れた老尼僧に千夏は突然の訪問の無礼を述べた。
「千夏さん…… いい御名前ね」
 千夏は寺に入りたい理由を老尼僧に説明した。平穏で変わることのない生活を望み、そして、世間に何も未練がない自分は髪を落とし仏門へ入らせていただきたいと。老尼僧は千夏が話す間、黙って頷き聞いていた。その姿に千夏は思いが伝わったと感じた。話し終えた千夏に、老尼僧はようやく口を開いた。
「千夏さん。人は千回夏を迎えても、一度として同じ夏なんてないものです。ここに夢はなく、時の移ろいに世間様よりも向かい合うことになるかもしれませぬ。それでも千夏さんは出家なさるおつもりですか」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み