第46話 大空は

文字数 876文字

 形のないものや、見えないものが、人々の恐怖を煽り、今やその言葉も世界もマスクの内側にあった。実際よりも狭い空間に閉じ込められた息苦しさ、村上貴裕の春の生活は否定と消極にまみれ、もはや現実を識別できる術を持たなかった。
 唯一の解放は、一人きりの夜だった。
 縮み切った身体と思考を最大まで引き伸ばし、軽くなったその身体で見上げた星々を指先で摘まんだ。弾け飛んだ星の屑は貴裕の頭上に降り落ちて、キラキラとした夢を見させてくれた。
 夜空に境界はなく、隔てるものもない。どこまでも続く星の流れと漂う大きな白月。神話も、歌も、全ての物語は夜空の下で語られ、夜の領域から出ることは決してなかった。
 安らぎと眠りの調べの中で、唯一保たれた自由の背に乗って。
 飛び回ることは簡単で、ただ意識を解放すればよかった。速度を上げることで、前にも後ろにも行けた。迷うこともない、疑いなんて初めからここにはなかった。
 もう一度、梅の咲く頃に。
 霞んだ月明りが幾重にも折り重なり、ひだの間に隠れた景色が幻になる前に。
 顔に添えた手は真実について考えさせた。揺れる髪は断片を切り刻み、視線が繋ぎ止めたそれらはこれまでと完全に違った。だからといって、何かに変わるわけでもなく、元に戻るわけでもない。どこにも届きそうで届かない、伝わりそうで伝わらない。
 こちらから見つめ、あちらでもこちらを見つめる。
 残しておける言葉も意味も、散らばった香りの端にぶら下がり、白煙と共に舞い上がる。掴み損ねた過剰なものだけが、奈落の底へと一直線に降下してゆく眺めを見送った。
 笑うべきか、悲しむべきか、それよりも大事な表情をしまい込んだ場所と、失われていった複雑な感情。
 絡み合う全てを解いたところで、夜空に浮かぶだけ。
 結び目を全て解いたところで、夜空に浮かぶだけ。
 一つ、また一つと分解した出来事を追うのは止めて、押し寄せる硬質な大気の中へ。
 振り返ればあるべきものを確かめながら、やがて見えてくるであろう着地点を望む。
 夜の裂け目をくぐり抜け、枕の下に手を伸ばし貴裕は、そこにあるものを確かめた。
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