第73話 ながめつつ

文字数 935文字

 陽は陰る。太陽は藤原あずさを待たすことなく勝手に暮れてゆく。多少の色の違いはあれど、いつの季節も雲を照らす夕焼けの後には夜が訪れる。あずさは闇へと変わりゆく空を見届けながら、しばらくそのままでいた。
「行くべきか、それとも……」
 今、夜空に浮かぶ雲は灰色に染まっている。さっきまでの移りゆく様々な色彩の雲を思い浮かべながら、せめてどの色であればあずさは待ち人の許へ行くことができたのだろうかと考えた。
「白い雲は……」
 まだ何色にも染まらずに無垢な気持ちであれば、風に流されるまま行くことができたであろうか。後悔すら芽生える前に辿り着けば幸せだと思えたかもしれない。ただし、そこで全て消えて終わるのであれば。
「薄紅の雲は……」
 移り変わる色のように心変わりし始めた淡い薄紅。寒空の白い頬に浮かぶように、感情の変化は雲が刻々と姿を変えてゆくのに似ているので、見惚れていては、きっと機会を見失うのであろう。
「橙の雲は……」
 色を超え光と一体になろうとするのを止めることなどできはしない。全ては光の中へと戻ってゆく、一日が終わるように。
 夕焼けは、あずさの足を引き留めただけでなく、迷う心も留めた。これでよかったのだろうかといくら考えてみても、もう遅かった。
 夕焼けを見ることなく行けば、あずさの人生は違うものになっていたかもしれない。あずさの眼が見た夕焼けを今さら否定できるはずもなく、この先も変わることなく心を染めた。人は変わらないと言えるのだろうかとあずさは考えてみたが、やはり色も形も変わる雲のようだと思った。
「今も変わらず待っているのかしら」
 あずさは夕焼けに出会うたびに待ち人のことを思い出した。そして、変わりゆく雲を眺めては、人の心を雲に映しながら見届けた。
「変わってゆく、雲は変わってゆく」
 もう会うこともないと思っていた待ち人は、あずさへ連絡をよこした。
「あの日の夕焼けを見届け、夜まで待っていました。変わりゆく空の下、ただ私だけが今も変わらず待っています。もう一度機会があるならば……」
 あの日に見た夕焼けや雲があずさを引き留め、待ち人もまた同じ夕焼けの中にいた。二人は今も同じ夕焼けを見続け、思い思いの考えの行く末もまた同じであった。まだ陽は陰る前である。
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