第71話 忘ればや

文字数 1,002文字

 目覚めに残る夢にとらわれて、ベッドの上で時の狭間を高橋良太は漂っていた。ぼんやりとする頭にブラインドの隙間から射し込む日光が熱い。身体を動かせば全てが一瞬で吹き飛びそうで、じっとしたまま夢の終わりからたぐり寄せるように夢を思い返した。
 これほど良太が執拗に夢にこだわったのは、現実をそのまま再現したような、とても夢とは思えない内容だったからである。昔に恋をした一人のある女、その後の関係には至らなかった人、その夢。
 その人に会わなくなってから随分の月日が経っていた。今さら夢の中で出会うとは良太も思いもしなかった。時間はあの時のまま、若い二人は陽の光の届かない薄暗いカフェの奥で話をしている。どうしても話の内容までは思い出すことができなかったが、その顔、とくに笑顔は鮮明に当時の姿だった。
数年前、その人が結婚したと知人から聞かされた良太は、一抹の寂しさを抱えながらも、きっと幸せになるだろうと確信した。良太のその後は、どうだったのだろうか。
 休日の遅い目覚め、好きなだけ夢について没頭できた良太だったが、立ち上がると顔を洗いに洗面所へと向かった。
「なんで、俺も若い頃のままと分かったのだろう……」
 鏡に映る自分の顔をあらゆる角度から眺めてみても、そこにはあの頃に比べ老けた無精髭の生えた良太の顔があるだけで、洗顔しても、歯を磨いても、寝癖を整えたところで、何かが変わるわけではなかった。しかし、どうして自分で見ることのできない自分の顔が若いと思ったのだろうか。
 豆を挽いた珈琲へ湯を注ぎながらバナナにかじりついた良太は、何か他の手掛かりがないかと眼を閉じて夢を思い返した。二人のいるカフェの奥から離れた光の射す入口の方、窓側の席……
「しまった……」
 並々注がれた珈琲はマグカップから溢れ出ていた。
「ああ、もういい加減にして忘れないと……」
 こぼれた珈琲を拭き上げようと添えた白いキッチンペーパーが茶色く染め上がるのを見て、良太はあることに気付いた。
 光がテーブルの上のマグカップを照らし、縁から流れ落ちた珈琲の茶色滴が底に敷かれた紙ナプキンを染めている。良太は店の奥にいる若い女を見初めると、もう一人いた男がこちらへと振り向いた。若い面影の良太は、そこにいた。
 何を今さらと思いつつも、良太は独りで暮らす今の生活に満足はしていなかった。良太は、誰にも打ち明けることもない夢の話と一緒に珈琲を拭い去った。
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