第26話 いくかへり

文字数 1,055文字

 冷え込んだ玄関にぶくぶくと一定のリズムで鳴る音。踵の減ったくたびれた革靴を履き立ち上がった斉藤諒は、下駄箱の上の水槽に浮かんだ金魚の死体を見た。湧き上がる泡の波に揺られ漂う屍。
「五年ぐらいは生きただろうか……」
 家からバス停へ、そして駅へと、幼い頃から代わり映えのしない道。ランドセルを背負い歩き、部活の荷物が増え、自転車に乗って、今はバスに揺られているが、諒にとってはずっと同じ朝だった。
 会社が終わればどこにも寄らず家路へ着く。朝来た道をそのまま戻る。いつもと違ったのは、玄関の金魚が一匹減っただけだと諒は思った。
「今朝あなたが仕事に出たあと一番大きい金魚ちゃん死んじゃったのよ。お母さん、悲しかったわ」
 味噌汁をよそいながら母親は一人喋っていたが、諒は何も答えず晩ご飯を口に運ぶ。一方的に話し続ける母親の声とテレビの音だけが延々と続き、会話らしいものは食卓になかった。
 食後に諒は、いつものように湯船に浸かる。小さい頃はとても大きく感じた浴槽も今は窮屈で、足を折り曲げて入った。だいたいこの時間になると父親が帰宅し、母親が出迎えに立つ声が風呂場にも届く。湯上りの一杯の水を飲みに台所へと行くと、父親はいつもニュースとおかず、それに母親の独り言のようなお喋りをつまみに黙ってビールを飲んでいた。これも昔から変わらない。唯一変わったのは、ここに弟がいないことだった。
 地方の大学を卒業後、そのまま同地の企業に就職した弟は、結婚、子育て、マイホームの購入と、実家で暮らす独身の諒とは対照的な人生を送っていた。永遠に年下のはずの弟が、今では兄弟が入れ替わったように人生の先にいるように諒はある時から感じ始めた。
 諒の部屋は元々弟と相部屋で、弟が出て行ってからは一人で広々と使っている。小学校に上がった時に買って貰った勉強机と大人には窮屈なベッド。年齢を重ね大きくなった諒の成長しないままの部屋。小学生の時に父親と作ったジグソーパズルの世界地図は、壁に掛けられた額縁の中でくすんだ色に沈んでいた。
 諒がいつものように晩ご飯を食べていると家の電話が鳴った。母親も近くにいなかったので諒が受話器を取った。弟からだった。今年の年始はウイルスのこともあるので顔を出すのを控えるから両親によろしく伝えてほしい、と。
「元気に過ごしているならいいけどねぇ。そうそう、お風呂沸いたから入って」
 熱い湯船に口まで浸かった諒は息を吐いてぶくぶくと泡を立てた。弾け消えてゆく泡を眺めながら、諒は弟と風呂場で遊んだ幼き日々を懐かしんだ。
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