第89話 うたがひし

文字数 1,055文字

 単身用マンションの最上階の一室、小口華奈はコードレスヘッドフォンをしながら大音量でサイケデリックロックバンドのライブ動画を観ていた。初夏の外気温は陽が暮れても一向に下がらず、ベランダの戸を開け放っていても部屋の中は日中に温められた屋上や壁のコンクリートの熱が身体へも伝わるぐらいに蒸し暑かった。徐々にテンポを上げてゆくバンドのリズムに合わせ、華奈も立ち上がりステップを踏みながら煙草の煙を燻らせる。リードギターの怪しく抒情的なリフが最高潮に達し、華奈の脳天までほとばしる興奮に拳を突き上げようとしたところで、視界が小刻みに震え出した。すぐに大きな揺れが足下から華奈を持ち上げ、PCの画面は前後にバタバタと動き始めると、部屋は横にスライドするかのように振られた。
「うわっ、あっ、ああ」
 地震だと気付いてからも収まる気配はなく、部屋中の物は次々と落下し益々揺れは大きくなり、華奈はスチール棚が倒れないように必死に手で支えていると…… 突然、真っ暗になった。
 萎むようにゆっくりと揺れは収まったが、華奈はスチール棚の固い手触りだけが頼りで、何も見えない。振り向きベランダの方を見ても、いつもそこにあったはずの夜景もなく、無音のヘッドフォンに遮られた孤独の世界で脈打つ鼓動だけが耳に響いていた。恐る恐るヘッドフォンを外すと、髪の毛の張り付いた汗ばんだ耳の周囲の皮膚に冷たい感覚が残り、外から連続して鳴らされる車のクラクションの音が響いてきた。手に持った煙草の燃える赤い火と、ヘッドフォンの青い小さな電源ランプだけが暗闇に光っている。
 足下に注意をしながら華奈は、ベランダへと出た。空には星も月もなく、距離感のなくなった街の光景を見下ろし、時折見える車のヘッドライトの反射と、聞こえてくる人の声や車の音を探すように闇を見つめた。
「もうずっと、このままでいいんじゃないの……」
 煙草の煙の後に吐き出した、ふと湧いた華奈の正直な気持ちだった。どこへも行けず、最低限の生活や仕事をしようにも制限や面倒が多すぎて、若い華奈は人生に期待することは何もないように思えてきた。けたたましく鳴るパトカーのサイレンの音は、何もない街に虚しく響く。ずっと華奈はベランダからそこにあるはずの街を見ていた。久しぶりに心の底から窮屈さがなくなった気がした。すると、部屋の電気が戻った瞬間、街にも一斉に灯りが点り、全ては元通りになった。
「いくら明るくなろうが、不安は見えないのに」
 散らかった部屋の片付けは後にして、華奈は新しい煙草に火を点けた。
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