第83話 昨日まで

文字数 959文字

 春になったら下ろそうと新しい白いスニーカーへ靴紐を通しながら、田仲みどりは天気予報を聞いていた。
「北東へと進む温帯低気圧は前線の温かい空気と冷たい空気の影響により発達し、等圧線の間隔は非常に狭くなっています。今晩は広い範囲に強風と強い雨をもたらすので注意してください……」
 街を吹き抜ける風は、窓の外で鈍い音と甲高い音の喧騒を撒き散らしている。紐を通し終えたスニーカーを脇に寄せるとみどりは、カーテンの隙間から夜の街を覗いてみた。横殴りの雨、上下に大きく揺れる電線、興味本位でみどりが少し窓を開けると、勢いよく温かい風がなだれ込んできた。
「うわぁ」
 風を受けたカーテンは、ひるがえりながら大きく舞い上がり、みどりは慌てて窓を閉めた。突然の出来事は何かいけないことをしたようで胸は波打っていた。落ち着きを取り戻したみどりは、ふと先日見た近所の公園の白梅を思い出した。
「せっかく咲いたのに、散っちゃうだろうな」
 寝ようとしても、風の音や壁や窓に打ち付ける雨音、何かが飛んでぶつかり転がる音と、色々なものをぶちまけたような外のやかましさに神経が昂り眼は冴える一方だった。
「ウイルスも花粉も全部飛んでけ、飛んでけ……」
 明け方近くに少し眠ったみどりだったが、外の大きな音で目覚めるとそれが気になり、そのまま起きることにした。
 長い夜が明けると共に春の嵐は過ぎ去り、みどりは外へ出てみたくなった。そこで、公園の白梅を見に行くことにし、今日という新しく訪れた一日の門出に、みどりは白いスニーカーを下ろすことにした。
 扉を開けると外は露を含んだ瑞々しい大気で満たされていた。道にはいくつもの長い枝やゴミが散乱し、嵐の凄まじさを晒している。
 まだ誰もいない公園に着いたみどりは、遠くからでもその姿を確かめることができた。白梅に花弁はなく、辺りのぬかるんだ土へとへばり付くように白い模様が散っていた。
 土へと一歩踏み込むと、白いスニーカーのソールは泥にまみれ、周囲からは湧き立つ春泥の匂いがした。みどり一人きりの春だった。
 しばらくすると散歩をするマスク姿の人達がちらほらとやって来た。すっかりマスクを忘れていたみどりは、何も変わっていないことに落胆した。
 季節は今変わろうとしているのに、終わりなき嵐のような昨日は、まだ続いていた。
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