第64話 時過ぎず

文字数 1,042文字

 街を歩けば沈鬱と悲愴ばかりが蔓延り、戦前生まれの海老原徹はそんな社会に対して憤慨していた。
「我生きる故に死すべき刹那是見落とすことなかれ」
 しかし、徹の眼に見えた社会は本当のところ真実なのであろうか。以前と変わらず過ごす市井の人々。仕方なく大きな力に従う人もいる。ましてや手本となる人物の不在は諦めの雰囲気を醸し出している。楽観的な思想もまた溢れかえっていた。死の匂いは、あちこちに漂っているというのに……
「泣け、泣き喚け、死にたくなければ、大声で泣け」
 今どきの言葉やネットを始めとする伝播の方法を知らない徹は、言葉を書に認め家の前に貼り出した。近所からは元々相手にされずいたので、また風変わりなことを、とぐらいにしか思われておらず、徹の言葉は誰の眼にも留まらない。そればかりか、夜半に降り出した雨が無情にも半紙を洗い流してしまった。
 早朝、雨上がりの家の前を掃きながら徹は思案した。
「最早如何ともしがたいところまで来てしまった」
 居間にある押し入れから長い桐箱を取り出した徹は姿勢を正すと蓋を開いた。中には年の離れた兄が秘密裏に持ち戻った刃が折られていない軍刀が入っていた。徹は兄の死後、刀を丁寧に研き大事に保存していた。刃先の鋭さは、老いてもなお曇ることのない徹の目尻のようだった。
 一日考え抜いた末に徹は二つの道へと絞り込んだ。まず一つ目は、身を挺し、この叫びを広く知らしめること。つまり、自刃による訴え。場所は霞が関国会議事堂正面。二つ目は、刃をもって、時の政治権力へ天に代わりて誅伐を下すこと。つまり、天誅。狙いは政府中枢人物。
 行動計画を練りながら徹は、どちらの道を選ぶかは最後に決めることにし、時と機の交わりをつぶさに観察した。全ての準備は念入りに進められ、如何なることがあろうとも大事に至らぬよう慎重に人目を避け、資料や当日の装束、もちろん刀に至るまでの全ては必要な時を除き一階と二階との間の天井裏へとしまい込んだ。
 意識不明の徹が発見されたのは家の前だった。箒の側に倒れる徹を見た通行人が通報した。防護服に身を包んだ救急隊員は諦めたように徹を救急車へと運び込んだ。その後、徹が家へと戻ることはなかった。
 誰かの耳に徹の声が届くことはなかったが、徹は確かに存在し社会を憂いた。大方の人の声は知られることもなく埋もれてゆく。徹の流した涙も、今となっては知る由もない。「知られることのない様々な声の行方、見えないのはウイルスだけであろうか」徹が最後に書いた言葉である。
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