第2話 あぢきなく

文字数 945文字

 風の強い秋の夕刻前、背筋のよい老婆が横断歩道で立ち止まった。
「ちょうどあの日も荒れた暗い天気だったかしら……」
 曇天に沈む街は一足早く訪れた冬のような侘しさがあった。信号が青に変わると小畑奈津子は手入れの行き届いたヒールで踏み出した。
 今年七十歳になる奈津子は、若さの秘訣を問われることが何よりも嬉しかった。そして、そんな時は決まって、
「恋をすることでしょうか」と、答えたが、聞いた方は、すっかりはぐらかされたように感じるのだった。しかし、奈津子は決して冗談を言ったつもりもなく、それが本心だった。
「ここも私みたいに何も変わらないのね」
 百貨店のショーウィンドウ脇の壁を背に立ち止まると、奈津子は往来を眺めた。陽が傾きかけた通りに今年はイルミネーションの光はなかった。人が集まると具合の悪い風潮と先の見通せない不景気が中止に追いやったのだった。
「あまりキラキラし過ぎるのもお婆さんには不釣り合い、むしろ昔を懐かしむにはこれでよかったのよ」
 細い腕に巻かれた小さな金の腕時計に眼をやると、まだ十五分ほどあった。
 五十年前の今日、この同じ場所で二十歳の奈津子は立っていた。若さで張り裂けそうな肌の下の高鳴る鼓動に気付かぬほど、頭の中は一心に愛する待ち人のことでいっぱいだった。しかし、待ち合わせの時間が過ぎても彼は来なかった。遠くからこちらへと近づく背格好の似た男を認めるたび期待に裏切られ、結局、彼が来ることはなかった。数日前に死んでいたのである。奈津子の存在を知らなかった遺族は、約束のあることなど知る由もなかった。
 奈津子が彼の死を知ったのは、約束の日からちょうど一年後のことだった。奈津子は、あの日に着ていたシャネルを揃えると、約束の場所へ、約束の時間に向かった。
 それから毎年、時間を幾度も繰り返すように、あの日に奈津子はやって来るのだった。
 今年も約束の時間が過ぎた頃、心臓に沁みるような冷えを感じた奈津子は、ちょうどこちらへとやって来るタクシーを止め乗車した。
「ああ、暖かいわ」
「近頃は、すっかり寒くなりましたねぇ。年を取ると、これからの季節は足腰が痛んで困ります。まあ、奥さんはお若いから心配ご無用ですなぁ」
「ふふっ、そうでもなくってよ。ようやく、私にも迎えが来る頃ですもの」
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