第108話 歯車は動き出す・陸

文字数 4,902文字

 江戸、田辺邸。
 紘子が療養中の佐野瀬見守武貫を尋ねてから三日経ったこの日、江戸の空は今にも雪が舞いそうな曇天だった。
 部屋で紘子の身支度を手伝いながら、雪は背後から声を掛ける。
「奥様、今日は随分と冷えますよ。この寒さでは瀬見守様のお加減も気掛かりですねぇ」
「確かに。昨日までは穏やかに言葉を交わすこともできていたが、明日をも知れぬ御身となれば、この寒さは堪えよう」
「寒さは奥様にも障りますから、早く春が来てほしいものですよ」
 そんな話をしながら着物に袖を通し、帯を締めていると、
「紘子殿、よろしいですか」
 と、親房の妻の菜緒が呼んだ。
「朝から申し訳ございません。義父(ちち)が、紘子殿に大事な話があると」
 ちょうど身支度を終えたところだったこともあり、雪がすぐに部屋に招き入れると、菜緒は入口の襖の前に座したままそう告げる。
「瀬見守様が、ですか?」
(昨日までは左山の風土や佐野家のことなど他愛のない話ばかりだったが、何故今朝になって急に……)
 紘子は胸騒ぎを覚えた。死期を悟った者が突然遺言を託そうとすることは往々にしてあるものだ。武貫もまたそうした状況に陥ったのだろうか。
「……よもや、瀬見守様のお加減が思わしくないのですか? 田辺様はどちらに?」
 紘子が問うと、菜緒はどこか気まずそうな顔をする。
「いいえ、義父は『大事な話故に、昨日までなかなか切り出せなんだ』と申しておりました。義父の容態に差し迫った様子はありませんでした故、夫はいつものようにお役目に出ております」
「そうですか……承知しました。瀬見守様にお目通り願えますか」
 紘子は菜緒に付いて部屋を出ると、武貫が仮の寝所としている部屋へと足を運んだ。

「瀬見守様、紘子でございます」
 廊下で挨拶をして武貫の部屋に入る際、紘子は傍に控える雪に幾ばくかの金子をそっと握らせる。
「奥様っ?」
「瀬見守様は『大事な話』と仰せだった。長くなるやもしれぬ。私がここにいる間、これで少し市中を物見遊山しておいで」
「ですが、これは殿様から奥様が頂いたものではございませんかっ」
 金子を慌てて押し返そうとする雪に、紘子は笑顔を見せた。
「そう。私が頂いたからには、私が有用に使わねば。故に其方に渡したいのだ。頂いたうちのほんの一部故、気に病まず好きに使っておくれ。この先……足の悪い私のそばにいれば、そう旅も遠出も容易く叶わないだろう。せっかく江戸に来たのだから、賑やかな市中を見ておいで」
「奥様……ありがとうございます」
 雪は感無量の面持ちで紘子に勢いよく頭を下げると、にっこりと頷く紘子に見送られながら廊下を去っていく。
「紘子殿、如何した? 廊下は冷えるだろう、早う近う」
「はい、ただ今」
 急かす武貫に返事をして、紘子は部屋に入った。
 白檀の香が焚かれる部屋の上座に敷かれた布団に、武貫は横たわっている。今でこそ慣れたが、以前左山藩邸で対面した頃よりも随分と痩せ衰えた彼を見た三日前は、内心狼狽したものだ。
「朝から呼び立ててすまぬ。ようやく、話す心づもりができたことがあってな。この三日、其方を前にすると怖じ気づいて話せなんだ。儂も衰えたものよ」
 武貫は紘子の方を向くような形で寝返った。
「斯様なことを口にするは亡き八束殿に顔向けできぬことなれど……」

 紘子が武貫と対面していた頃、菜緒に商家の並ぶ通りを教わった雪は賑やかな市中を散策していた。
 紘子に金子をあてがわれ喜び勇んで出てきたはいいが、そもそも土地勘のない場所であるうえにこの寒さだ。田辺邸からそう離れていない辺りで雪は手頃な土産や軽食を買える通りを歩く。
 炭で焼かれた餅を買い、傍の縁台に腰掛けて頬張っていると、
「お前さん……お雪かい?」
 と、女性の声が頭上から降ってきた。雪が顔を上げると、そこには声から察せられた通り一人の女性が立っている。年の頃は雪よりも上、三十路に近いと思われる。栗色で縞模様の袷羽織を羽織ったその女性は、身なりからしてそこそこに裕福な商家の妻子に見えたが、雪は彼女のことを知っていた。
(かずら)姐さんじゃないか!」
 雪は年上の女性を「葛」と呼ぶと、
「こんな所で会えるとは何て奇遇かね。姐さん、こっちに座っとくれよ」
 と、縁台の端に座り直して葛に席を譲る。葛は
「ふふ、見てくれはどこのお女中さんかと思ったけれど、お前さんは変わってないね」
 と微笑みながら雪の隣に腰掛けた。
「ああ、姐さんが身請けされてから暫くして、あたしもお武家の次男坊に身請けされたのさ。ところがこの次男坊、主家の奥様の世話係にしたくてあたしを身請けしたんだよ。全く、信じられるかい?」
「成程、女中に見えたのは間違いじゃなかったみたいだね。けれど、そう言う割には随分と嬉しそうじゃないか」
 葛に見透かされ、雪は照れ笑いする。
「姐さんにはお見通しだね。そうなのさ、こう見えて毎日それなりに楽しくやらせてもらってるんだよ。奥様は若いけどよく出来たお人で、あたしのことも大事にしてくれてね。あたしも、元々その次男坊とは好いた惚れたの間柄じゃなかったし、働いた稼ぎも全部自分の自由にできるし、さすがに贅沢はできやしないけど文句のない暮らしはさせてもらってるよ。姐さんは、今も両替商の大旦那の所に?」
 葛はかつて、峰澤の旅籠「とき屋」にいた。雪よりも先に飯盛女として売られてきていたが、得意客であった両替商の大旦那に見初められ、身請けされてとき屋を去るのも雪より先だった。
「ああ、そうさ。有り難いことに、あたしも真っ昼間からこうして街をふらつける程に自由にさせてもらってるよ」
 そう口にする葛の表情は、どこか寂しげだ。
「姐さん、まこと大旦那には良くしてもらってるのかい?」
「もちろんさ。ほら、この袷羽織だっていい生地使ってるだろう? なかなか上等な品だよ。しかも、仕立てたのは雇いの針子、あたしゃ何一つ苦労せずこれを着てるのさ。まぁ……何もさせちゃもらえないってのが真のところだけれどね」
 旅籠に売られてきた飯盛女が身請けされた後は、身請けした客の妻や愛妾となることが多かった。葛もまたそうして新たな人生を迎えたのだが、それが必ずしも幸せとは限らない。客に本妻がいれば諍いの種になり、既に家業を継いだ嫡男にしてみれば大旦那である父親の愛人は家業に口出ししかねない目の上のたんこぶにもなる。その家で働く番頭や下男下女にとっても、家や店の稼ぎを食らう穀潰しか、扱いに困る厄介者でしかない。大旦那の愛人故に無碍にも扱えない以上、いっそ何もせず、何も言わず、館の奥で人形のように黙っていてもらいたい……身請けした客の周囲の者たちはそんな本音を抱えていることが多いものだ。
「何はともあれ、お前さんが楽しそうで良かったよ。お武家さんの妾にならなかったってのも、まこと良かった話さ。あたしもね、大旦那が武士じゃなくて商人だったのは救いだったと思ってるよ」
「まぁ、確かにお武家ってのはお上の(めい)ひとつでお家が断絶しちまうし……妾にでもなったらいつとばっちり食うか分かったもんじゃないからね」
 雪がそう返しながらこくこくと頷いていると、
「それだけじゃないよ。今日だって、向こうのお(やしき)でお武家さんが一人、お(はら)を召されるらしいよ。泰平のご時世だって言っても、お武家ってのは何がきっかけで命を落とすか分からないもんさ」
 と葛が眉をひそめる。
「お腹を……って、姐さんどこでそんな話を聞きつけてきたんだい?」
「ほら、うちは両替商だろう? お武家さんは得意様さ。毎日取っ替え引っ替えおいでなさる。その中の一人がね、大旦那とそんな話をしてたのさ。そのお客さん、向こうのお邸に勤める用人でね、何て藩のお邸だったかね……嵐山、じゃなくて……愛宕山、じゃなくて……」
「……左山(あてらやま)かい?」
 葛が次々に口にする山の名に似た名を、雪はここ数日毎日のように耳にしていた。よもやそんな筈があるまいと何の気なしに呟いた雪だったが……。
「そうそう、左山。左山のお邸だよ」
「……は?」
 葛の答えに雪は暫しの間言葉を失うが、暇を持て余している葛は構わず続ける。
「お腹を召されるなんて、何か余程の粗相をしたからだろう? それが左山の誰かの失態だとしたら、左山だってお咎めを受けるわけさ。それで減封だの改易だの食らったら、左山のお武家さんは扶持を失う。稼ぎのないお武家さんに金を融通するのは危ないからね、大旦那も黙ってられなくてあれやこれやと訊いてみたわけだ。幸いにも左山は切腹するのに場を貸すだけだって分かってうちはひと安心だけれどね」
「……一体、何の偶然かい?」
 葛の話を聞いた雪は、ひとりでにそう呟いた。
(名の通った藩が江戸屋敷を切腹の場に貸すなんて、相手が余程お高い身分の武士に違いない。それに、そういうことは昨日今日決まることじゃない筈だ。恐らく何日も前から段取りを組んでる。左山のお殿様を兄に持つ田辺様なら、藩邸で他所の武士の切腹が執り行われるなんて話、耳にしない筈がない。近辺で切腹なんて重大事があると分かっていたら余計な人間は遠ざけるものだろうに、あのお方は大殿様を自分の邸に引き取り、全くの余所者なうちの奥様を呼び寄せた……しかも、あんなに急に。まるで、切腹の日取りに合わせたかのように……)
 あまりに不自然すぎる、そしてあまりに不可解で矛盾した数々の事柄が雪の中で絡み合う。
「……姐さん、左山は誰の切腹に場を貸すんだい?」
 考えすぎなのかもしれない、紘子が左山藩邸で行われる切腹と関わりがあると考える方が突飛で不自然だ、この機に紘子が田辺邸に招かれたのもただの偶然で、親房はそもそもその切腹を知らないのではないか……浮かんでは消えるそんな思考に手っ取り早く決着をつけるには、誰が切腹するのかさえ分かればいい気がして、雪は葛にそう問うた。
「さてね、誰かまではあたしも知らないよ。わざわざ藩のお屋敷を使うくらいだ、それなりのお方なんだろうけれど。ただ、うちに来たお武家さんが言うには、どうも大名殺しの下手人に替え玉を使ったとかどうとか……要は裁きを下したご公儀に赤っ恥かかせることになったってのがとどのつまりらしいよ。聞いてて随分ややこしい話だったねぇ。確か、こんな話だったかね……」

 葛の話はこうだ――とある領国の大名が何者かによって殺められ、その正室が下手人として二年もの間手配されていたが、最近ようやくお縄になった。ところが、調べを進めたところ真の下手人は他におり、正室に罪はなかった。公儀は謂れ無き罪に問われた正室を哀れみ、新たな嫁ぎ先を用意するなど破格の厚情を見せたが、お縄についた正室はどこの者ともつかぬ偽者で、真の正室は行方知れずだったことが後になって発覚。無実の罪により投獄された正室を助けたつもりが、身許の分からぬ卑しい女にまんまと騙され高い家格の嫁ぎ先まで用意したとあれば、公儀の面目丸潰れ、とんだ赤っ恥である。公儀は大層怒り、この偽者を斬首しようとした。しかし、偽者はお縄になった際に酷い拷問を受けており、それが元で公儀の沙汰が下る前に命を落とした。振り上げた拳の下ろし先がなくなった公儀は、この偽者を正室に仕立て上げ縄に付かせた者に責任を取らせ、この一件に幕を引くことにした――

(大名殺し、下手人が正室で、二年後に裁きが……嫌だよ、ちょっと待っておくれよ)
 雪の表情が険しくなる。
「お雪、どうしたんだい? 何だか顔色が悪いよ」
「何てこったい……姐さん、話を聞かせてくれてありがとう。あたしゃすぐ奥様の元に帰らないと」
 雪の様子を怪訝そうに眺めながらも、葛は「そうかい」と苦笑し、
「何だかよく分からないけれど……久しぶりに会えて良かったよ、お雪」
 と、立ち上がる雪に声を掛けた。
「あたしこそ、姐さんに会えて嬉しかったよ。この辺りに来れば姐さんがいるって分かったからね、また来るよ」
 葛の話がひどく気掛かりなのも事実だが、葛と再会できたことは雪にとって望外の喜びだったことも事実だ。雪はそのことにだけは心底嬉しそうな笑みを葛に見せて、元来た道を駆けていった。
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