第40話 幹子の昔語り・陸

文字数 3,927文字

 御殿を出てから七日ほど経った頃には、私たちはもう八束の家の近くまで来ていた。
「幹子様、この調子であれば恐らく明後日辺りには八束の旦那様のお顔を見られましょう」
 紘蓮殿はそう言って笑いかけた。
「それにしても、真に姫様の病は病ではなかったのだねぇ、武義(たけよし)
 イネは息子である紘蓮殿を元の名で呼びながら、しゃんと座って膳を取る私の姿をしみじみと眺めた。

 歩いては旅籠で一晩を過ごし、また歩いては旅籠を探して一晩、そうして実家の近くまで来るうちに、私はどうにか自力で歩いて二人についていけるまでになっていた。
 食事も人並程度に腹に入るようになり、よく眠る事も出来た。
 髪の毛ばかりはすぐにどうこうとはいかなかったが、あの地獄を抜け出せた事で、私の心身は少しずつ輿入れ前の状態に戻りつつあった。

「ええ、母上。幹子様に真に必要であったは身の安全と心の安穏。これらさえ取り戻せば自然と傷は癒え、食が進み滋養も摂れます。朝永の医者とて、これしきの事は気付いておったでしょうが……」
「……旦那様、いいえ、鬼頭様に責があるような物言いは口が裂けても出来なかったのでしょう」
 そこまで言って気まずそうに口を噤む紘蓮殿の言葉の続きは、私が苦笑と共に声にした。
 それから、イネと紘蓮殿に改めて小さく頭を下げた。
「二人には感謝してもしきれない。無事父上に再会出来た暁には、二人に心づくしの褒美を賜るようお願いしようと思う。今の私にはそれくらいしか出来ないけれど……」
「何を仰いますか姫様、イネはまた姫様がそうしてお元気になられただけで……っ」
「母上、泣くのはせめて八束の旦那様の元に辿り着いてからにして下さい」
 旅籠の一室に零れ落ちた私たちの笑い声。

 この時の私たちには知る由もなかった。
 地獄の鬼が両親を食らおうとしていた事など……。

 日が昇り、旅籠を出て一路実家に向かっていた時だった。
「何かお触れでも出ているのだろうか?」
 道中、張り紙に集まる小さな人だかりが気になった私は足を止めた。
「某が確認してまいります」
 紘蓮殿が張り紙に向かい人だかりの中に入り込んだけれど、大して時を経ないうちに彼は急ぎ足でそこを抜けてきた……青ざめた顔で。
「武義、如何したのだ?」
 イネが尋ねるものの、紘蓮殿は
「とりあえず、この場を離れましょう」 
 と私たちを人気のない通りに促した。

 歩きながら、紘蓮殿が口を開いた。
「幹子様、鬼頭様が何者かに殺められたようでございます」
「……え?」
 瞠目する私に、紘蓮殿は追い打ちを掛けるように張り紙の中身を説明した。
「その下手人として……幹子さまと母上が手配されている、と……」
「何だって!? そんな事があるわけが……」
 声を上げるイネを「しっ」と制した彼から、更に衝撃の内容が伝えられた。
「しかも、や……八束の旦那様と奥様が、鬼頭様殺しに加担したとして捕らえられたと……」
「そ、そんな……」
 私はそう呟くのがやっとだった。
「ひとまず、表通りを歩くのは危のうございます。山を抜け、八束のお家を目指しましょう。あのお触れが真か否かを確かめぬ事には何とも……」
 冷静に今後の事を口にしながらも、紘蓮殿の唇は小刻みに震えていた。
 彼はきっと、心のどこかであの張り紙が誤りである事を願っていたのだろう。
 この時の私もそうだった。

 けれど、その願いは容易く打ち砕かれた。
 藪に身を潜めながら山中の獣道を進んでいた時、刑場の裏を通りかかった。
 三人で茂みの間から覗いた時、私たちは愕然とした。
「あ……あれは……」
「おのれ、何という仕打ち……!」
 顔面蒼白になるイネと、怒りに拳を握る紘蓮殿、そして言葉さえも失ってしまった私……私たちの視線の先には、晒し首が二つ。

 見紛う筈もない。
 父上と、母上だった。

「……武義、こうなったら姫様だけでもお守りしようぞ」
 意外な事に、真っ先に泣き出しそうなイネが涙ひとつ流さず静かに口を開いた。
 普段はすぐに泣くイネだが、彼女も武家の出、そして旗本の家に仕えているという高い誇りがあったのだろう。
 イネは私を真っ直ぐに見据えた。
「姫様、これより先は武義と共にお行き下さい。イネとは、ここでお別れでございます」
 イネの口から出た衝撃の言葉に私は小さいながらも声を荒げた。
「何を言うのだ、イネ!」
「武義、あの触書(ふれがき)には私と姫様が下手人とあったのだろう? 追っ手は私と姫様が共におると考えているに違いない。ならば、男のお前と一緒に逃げた方が追っ手の目を誤魔化せよう」
「母上……」
 紘蓮殿はイネの覚悟を察したのか、何も言えずにいた。
「イネを危ない目に遭わせておいて私だけが逃げるなど出来るものか!」
「姫様、どうかお心お鎮め下さい。イネは尾張の北に縁者がおりますので、そこを頼みにして身を潜めようと思うております。ですから、ご安心下さいませ」
 こんな時だというのに、イネは穏やかに微笑んでみせた。
「武義、くれぐれも姫様を頼んだよ」
「……母上、ご武運を」
「お前もな。さあ姫様、早うお行き下さいませ」
「イネ……」
 なかなか立ち上がれない私を紘蓮殿が無理やり立たせた。
「幹子様、ここに留まるは母上の身にも危険でございます。さあ」
 紘蓮殿は私に歩くよう促したが、私はそれに抗うようにイネの手を取り、
「イネ、必ず……必ず生きてまた会おうぞ」
 と告げた。
 もはや私にはそんな口約束しかイネにしてやれる事がなかったのだ。
「もちろんでございます。イネは生涯姫様にお仕えするとお約束したのですから」
 そう言って頷くイネと別れ、私は紘蓮殿に手を引かれながら進路を変える事となった。

 紘蓮殿は京の修行僧であった頃の伝手を頼り、道中幾つかの寺に寄った。
 そこで僧衣を譲り受けたり、関所手形を上手い具合に用立ててもらったりしながら何とか江戸の手前までやって来た。
 私が「紘子」と名乗るようになったのもこの頃だ。
 世話になった紘蓮殿から一文字拝し、私を生かすために働いてくれた方々の事を決して忘れぬよう戒めとしてこの名にした。
 様々な人の溢れかえる江戸が近いせいか修行僧姿で歩いていても不審がられる事はなかったが、江戸には朝永の藩邸もあり、このまま入るのは危険だった。
「紘子様、某と貴女様の件で妙な噂が立っているようだと先日寄った寺の者に聞きました。何やら某が貴女様を拐かしたと……」
「何と滑稽な。ですが、噂とは侮れぬもの。巡り巡るうちに、紘蓮殿までも鬼頭様殺しの下手人の一味にされてしまうやもしれません」
 安宿の一室で互いに苦笑し、頷き合いながら私たちはそろそろ別れようという話を始めた。
「江戸は出女にとかく厳しい。一度入ると有事の際に逃れるのは難儀でございましょう。故に紘子様は江戸に入らず、その先を目指されるがよろしいかと」
 宿の主人に借りた地図で紘蓮殿が指したのが峰澤だった。
「峰澤は、江戸が近いためか人も多く城下には長屋もあると聞きます。浪人がうろついているのは少々不安でございますが、身を潜めるには良い場所かと」
「分かりました。ところで、紘蓮殿はこの先如何されるおつもりなのですか?」
 私が問うと、紘蓮殿は真剣な面持ちで答えた。
「某は江戸に入ります。朝永の藩邸があるとはいえ、跡取りのいない鬼頭家は恐らくじきに取り潰しの沙汰を受け、藩邸ももぬけの殻となりましょう。某は江戸でこの件の真相を探ります」
「真相を探る……?」
「はい。鬼頭様を殺めた真の下手人は何者か、何故鬼頭様を殺めたのか、それが分かれば何故紘子様に罪を着せようとしているのかも分かりましょう。そうすれば、紘子様をお守りし、お救いする手立ても見つかろうというもの」
 私は眉をしかめて
「朝永がお取り潰しになれば、浪人に身を落とした家臣たちが江戸に流れるやもしれません。中には紘蓮殿の素性に気付く者も出てくるやもしれないでしょう。危険です」
 と止めたけれど、紘蓮殿の意志は固かった。
「危険は承知の上、されど某には母との約束がございます。黙って逃げ続けるままでは貴女様を真にお守りする事は出来ません。なに、江戸には人が溢れている、身を隠すにはもってこいの場所でございます。慎重を期して探ります故、どうかご心配なさらず」
「……分かりました」
 私は唇を噛みながら紘蓮殿に頭を下げた。
「何とぞ、よろしくお頼み申します……」

 翌朝共に旅籠を出てすぐ別れたが最後、私はかれこれ二年紘蓮殿と会っていない。
 けれど、朝永を離れ峰澤で暮らすうちに、鬼頭様殺しの件について私なりに思い至った事はある。
 朝永で全てを掌握していたのは吉住だ。
 張り出されていたあの手配書も、他でもない彼の指示がなければ為されぬ事。
 真の下手人が何者かは分からない。
 けれども、私を下手人としたのは吉住で間違いない、つまり――私に罪を着せようとしているのは吉住だ。

 己の濡れ衣を晴らす術はない。
 そう遠くないいつか、私も両親の後を追う事になるのだろう。
 紘蓮殿は私を救うと言って下さったが、それで彼の身が脅かされるような事になるのは本意ではない。
 そうなるくらいなら、私は潔く首を差し出そう。
 切り札の離縁状を突きつけたとしても、吉住らに容易く握り潰されよう。
 それでも私は最後の最後まで潔白を主張しよう。
 八束の娘として。

 そう思いながら、私はこの二年を過ごしてきたのだった。
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