第65話 思わぬ氷解

文字数 3,149文字

 信州から峰澤までの道程は決して楽なものではない。
 成人男性の足でも概ね七日は掛かる。
 それを重実は途中馬を使うなどして四日で踏破した。

 ――峰澤城。
 重実は旅装束から小袖に羽織袴姿に着替えると、早速表御殿の広間に入る。
 縁側から障子貼りの戸を開けると、畳の上には既に従重と忠三郎が座して頭を下げていた。
 重実は一段高い最奥の上座に進み腰を下ろすと、
「待たせた。楽にしろ」
 と声を掛ける。
 二人が顔を上げるのを確認し、重実は苦笑を浮かべた。
「長らく領を抜けてすまなかった。従重、名代ご苦労。忠三郎、領内の様子は変わりないか?」
 従重は
「道中のご無事、何よりにございます」
 とだけ返し、忠三郎は
「はっ。特段変わりなく、日々つつがなき事にございました」
 と答える。
「そうか。帰って早々だが、明日江戸に発つ。もう暫し、城と領を頼む」
「では、裁きは予定通りに行われると」
 忠三郎の問いに重実は頷きを返した。
「裁きが下り、刑が処されるまでは見届けるつもりだ」
「では、早速明日の出立の支度をしてまいります」
 忠三郎は一礼して広間を出る。

 忠三郎の抜けた室内では、畳を何枚も隔てて兄弟が向かい合う形となった。
「では、俺はこれにて……」
 そう言って後退ろうとした従重を、重実は
「待て」
 と止める。
 一瞬従重の目が細められた。
(兄上は如何なおつもりか。互いに同じ女を好いた間柄となれば気まずい事この上なかろうに。俺はただ黙って引き下がり紘子の幸いを願おうと、ようやくそう思えるようになったというのに……)
 怒りにも似た微かな不快感を抱えながら、従重は再び座す。
(さて、何から言うべきか……)
 重実は思案した。
 従重の性格の厄介さは嫌と言う程心得ている。
 言葉じり一つで彼は容易く不機嫌にもなり、剣呑にもなる。
(俺がこいつとの間に抱えてきた長年のわだかまりを小さく出来るとすれば、恐らく今しかない……)
 重実は軽く拳を握りながら、真っ直ぐに従重を見据えた。
「文でも知らせたが、旧朝永藩家老の吉住及び軍学者由井正雪とは、田邉殿の命を受けて接触した事とするように。あくまで田邉殿が放った密偵、それ以外のものではないと心得ておき、不用意な言動はせぬように」
(何かと思えば、またお小言か……兄上は、結局何も変わってはおらなんだ)
「承知しま――」
「だが」
 苦虫を噛み潰したような顔で返事をしようとした従重を、重実が遮る。
 幼い頃から利発ではあったが、重実は他人の話を最後まで聞く男だ。
 それはこれまで何度となく繰り返されてきた従重との口論でもそうだった。
 己の知る兄とは思えない言動に、従重は面食らう。
 そして、その後の兄の動作に、彼は言葉を失った。
「お前がいなければ、俺は何一つ成せなかった」
 重実はそう言いながら従重に深く頭を下げたのだ。
「ひろを救いたくても、あの時の俺には決定的な証を立てられなかった。だが、お前が急ぎ離縁状を届けてくれたお陰でひろの無実の証が立てられた。それだけじゃない。確かにお前の行動は軽率だったかもしれん。だが、お前が吉住や由井と相見えた事で、田邉殿は公儀転覆を阻止する事が出来た。心から、心から礼を言う」
(兄上、何を……)
「あ、頭をお上げ下さい……当主ともあろう者が、弟に頭を下げるなど……」
 ようやく出た声は僅かに震えていた。
 重実はゆっくりと頭を上げると、再び従重の双眸に視線を向ける。
「これが、俺の本心だ」
「兄上……」
 嘘偽りない重実の言葉と謝意。
 きっと、初めての事ではない。
(ああ、そうだ……兄上は、頭こそ下げた事などないが、俺に偽りを言った事は一度もなかった。常に正しく、常に真っ直ぐだった。俺は、そのような兄上に嫉妬していたのだ……)
「俺がこれまでお前から様々なものを奪ってきた事は否めん。家督や地位、家臣……たかだか一年先に生まれただけで俺はお前が望んでも持てないものを与えられた。その上……」
 重実は苦しげに眉根を寄せた。
「……俺は、お前が決して渡さないと言ったものまで奪おうとしている」
 従重の視線が畳に落ちる。
「……紘子の事ですか」
「……ああ」
 重い沈黙が流れた。
(兄上らしいと言えば「らしい」が、「らしくもない」な……)
 従重は俯いたまま寂しげな笑みを浮かべる。
 嘘のない真っ直ぐな物言いは確かに兄らしい。
 だが、賢い兄ならもっと器用に始末をつけられそうなものだ。
 わざわざここで触れずに当然の如く紘子を城に迎え入れて当然の如く婚儀を済ませ当然の如く住まえばよいものを、何故こうも回りくどい物言いをするのか……従重には理解出来なかった。
「兄上は何を仰りたいのですか?」
 理解出来ない事への苛立ちからか、従重はついそう言い放つ。
 意を決し、重実は従重の尖った声色に怯まず返す。
「お前にだけはしかと告げたい。俺はひろを好いている、心底好いている」
「……っ」
 ひとつ呼吸して、重実は続けた。
「お前が真剣にひろを好いていると分かっている故、お前から逃げるわけにはいかんと思った。お前に罵られようと、殴られようと、俺は俺の意志を貫く。それがお前に対する真心だと思った」
(真心……だと?)
 何でもそつなくこなす兄。
 何もかも手に入れ、何不自由ない兄。
 自分とは真逆の兄。
 そんな兄の口から「真心」などという言葉が出てくるとは、従重は夢にも思っていなかった。
(兄上は俺を見下しているものとばかり……)
 重実の言葉は更に続く。
「だが、俺はお前にひろを諦めろとは言わん。無論、俺も引かん。ひろの事に関しては、俺はお前を弟とは思わず、良き敵として見做す」
 従重がここまで敵意を剥き出しにする兄を見るのは初めてだった。
 しかし、それが妙に心を浮き立たせる事に、従重は戸惑う。
「何を仰るかと思えば……俺に喧嘩を売っているのですか?」
「いくらだって売る。俺も男だ、好いた女をかっ攫われるくらいなら安い喧嘩も振り売ってやるさ」
 重実の飾らぬ生々しい言葉に、従重は戸惑いを隠せぬまま思わず吹いた。
「なっ! 兄上が斯様な汚い言の葉を吐こうとは!」
「……何とでも言え。お前のような男が相手では俺も余裕がないという事だ」
「兄上……」
「……っ」
 今度は重実の方が絶句する。
 彼の知る弟は幼い頃から常に不機嫌な顔をして、いつも睨むような視線を向けてきた。
 繊細で、横暴で、堪え性のない弟。
 何故こうも恨まれるのか、何故上手くやれないのかと、散々悩まされてきた。
 そんな弟が……。
(微笑んでいる……あの従重が……)
「兄上、そう焦る事もございますまい。紘子は兄上を見ている。俺が入る余地はございません」
「従重……」
「俺には俺の考えがございます。紘子への想いを捨てる事は生涯叶いますまい。されど、その想いを如何にするかは俺次第。俺は俺のやり方でこの想いを大切にしとうございます」
 微笑みばかりか口調まで柔らかくなった従重が、重実にはまるで別人に見える。
「幸い紘子の素性は取り潰されたとはいえ名の知れた旗本の息女、大名家に嫁いだ歴もある。兄上の妻として相応の格と言えましょう。公儀の許しさえ得られれば、あとは何の憚りもない。紘子が日々笑って過ごせるのであれば、それが最善かと」
「お前……お前はそれでいいのか?」
 困惑を隠せない重実に、従重は
「申した筈。俺は俺のやり方で、と。されど……」
 従重は不意に笑みを消した。
「万に一つ、兄上が紘子を泣かせるような事あらば、今度こそ俺が紘子を奪う。そのお覚悟はおありか?」
(こいつ……)
 重実は双眸をぎらつかせる。
「言わずもがな」
「……結構にございます。では、俺はこれにて」
「ああ」
 兄に一礼して広間を去る従重と、上座から弟を見送る重実。
 双方の顔には、良く似た微笑が浮かんでいた。
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