第51話 死の淵に・弐

文字数 2,729文字

 翌日、紘子が冷たい石床に倒れたままじっと痛みを耐えていると、複数の足音が響き始めた。
 足音は紘子の牢の前で止まる。
 吉住の手下たちだ。
「吉住様直々にお調べだ、出ろ」
 手下たちは歩けない紘子の奥襟を掴むと、まるで物を引きずるように牢から連れ出した。

 紘子は奉行所の裏庭で佇む吉住の前に転がされる。
「白状する気になって下さりましたかな?」
「身に覚えなき事を……どう白状しろと」
 嘲るような眼差しで見下ろす吉住に、紘子は時折痛みに喉を詰まらせながら答えた。
「思いの外ふてぶてしい。そのような性分ならば傷だらけの姿を見ても誰も同情は致しますまい。存分に痛めつけた後、市中を引き回して差し上げましょう。民たちは思うでしょうな、『あれだけ痛めつけられても罪を認めないとは、とんだ悪女だ』と。この地には、貴女様を信じる者は元よりおりませんからな」
 吉住はそう言いながら紘子の足を踏みつける。
「あああっ!!」
 脳髄が噴き出すのではないかと思う程の痛みに、紘子はたまらず悲鳴を上げた。
「どうですか、そろそろお認めになりませんか?」
「決して……み、とめる……ものか」
 咳き込みながら抵抗を見せる紘子に、吉住は嘆息する。
「この程度では吐かぬと……なるほど。この調子では白洲でも知らぬ存ぜぬを通すのでしょうな。ならば致し方あるまい」
 吉住は手下を呼んだ。
「適当に痛めつけておけ」

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 それからかれこれ七日程経ったのだが、もはや紘子にはそうした「時の感覚」は殆どない。
 いつからか周囲の音さえろくに耳に入らなくなり、まるで水の中に潜った時のようにぼんやりとしか聞こえない。
 いつぞや櫛を濡らしていた血はとっくに干からび、牢の床には乾いた血のこびりついた櫛が、これまた血で固まった髪にくっついたまま転がっていた。
 一見おぞましい光景だが、それだけが唯一紘子の心を現世に留めている。
(まだ、足掻ける……まだ、生きている……最後まで、最後まで、私は……)
「私は、鬼頭様を手に掛けておりません……」
 ただひとりきりの牢の中で、紘子は何かに取り憑かれているかのようにその一言を繰り返した。
 
 その頃、旧朝永領内の宿では、焦りを堪えながら重実が勝徳の到着を待っていた。
 彼の傍らには親房もいる。
 顎に手を添えたかと思えば今度は額を抱えたりと、口には出さないものの重実の動きには落ち着きがない。
「重実、急くな。急いては事をし損じると申すだろう」
「田邉殿……面目ございません」
「いや、今のお前の心中を思えば、致し方無い事だがな」
 そうは言ってみたものの、実のところ親房にはこうも平静を失う重実の心の内が分からない。
 親に決められた婚姻をただ受け入れただけの夫婦関係しか知らない親房には、今の重実がどうにも理解し難いのだ。
 だが……その反面羨ましくもあった。
「それにしても……」
 重実の気を紛らわそうと、親房が口を開く。
「……滅多な事では狼狽しないお前をここまで追い込むとは、幹子殿は余程良きおなごなのだろうな」
「ええ、それはもう」
 何の躊躇もなく即座に断言した重実に、親房は苦笑を洩らした。
「全く……私はお前が羨ましいよ」
「何を仰りますか、あれ程の奥方様がいらっしゃるというのに」
 親房の苦笑がふっと寂しげな笑みに変わる。
「いや、田邉の家に婿に入って随分と経つが……菜緒には、情は感じても恋慕の思いは湧かん。仕方の無い事だ、私は言われるがままに田邉の家に入り、菜緒も言われるがままに私を受け入れ……家のための婚姻であり、私たちは互いを知らぬまま夫婦になったのだから。菜緒は気立てが良く、働き者で教養もある。妻としてはこれ以上ない女だ。故に大切にせねばと思うが、それはあくまで『義』であって、是が非でもそうしたいという『欲』ではないのだ。菜緒が幹子殿と同じ境遇に置かれても、恐らく私はお前のように心を乱される事はないだろう……」
「恐れながら……」
 重実は居住まいを正し言葉を返した。
「奥方様が他所の男に寝取られる様を思い描かれた事はございますか?」
「は……はぁっ!?」
 親房は思わず奇声を上げる。
 それだけ重実の一言は衝撃的だった。
「奥方様が田邉殿に見せた事のない笑顔を他の男に振りまき、聞かせた事のない艶めかしい声を発しているのではないかと……そんな事を考えてみて下さい。寝取った男の首を斬り落としてやらんと、頭に血の上るような心地がしませんか?」
「それは……」
 親房は想像力を働かせてみる。
 菜緒が知らぬ男と連れ立って歩き、見た事もないような表情で談笑し、やがて同じ褥に入る……そこまでで彼はふるふると首を横に振った。
「斯様な事はこれまで考えた事もなかったが……そのような事になったら、私は……」
「とても平静ではいられませんでしょう?」
「まぁ、確かにな」
「それこそ、田邉殿が奥方様に恋情を抱かれている何よりの証ではございませんか」
 小さく微笑みながらも、重実の眼差しは真剣だ。
 それだけ親房の心の有り様に親身になっているのだろう。
(いつの間にか随分大人になったものだ。この私に色恋を説くようになるとは)
 兄弟子として道場で世話を焼いていた頃から重実は確かに齢にそぐわぬ落ち着きを醸してはいたが、それでも親房にしてみればまだまだ「子供」だった。
 それが、少し見ない間に藩主となり、今はこうして一丁前に高説を垂れるようになっている。
 我を失うと加減を忘れる「子供」は、頼れる「弟分」に成長していた。
「成程な。情も深まれば愛となるか」
「そういう事です」
「だが、まるで心当たりでもあるような口ぶりだったな、重実? もしや、お前には悋気(りんき)を起こすような恋敵でもいるのか?」
 兄貴分の性だろうか、親房は少々意地悪な質問を重実に投げかける。
 すると、重実はやや拗ねたような顔を見せ、
「ええ。どこぞの旗本の次男坊だなんて名乗ってるそうですが、そいつに親切にされた話をひろが微笑みながら俺に聞かせてきた時はひどく胸が悪くなりましたよ」
 と吐き捨てると、従重を頭の隅に追いやろうと意識的に瞼を閉じ短く息を吐いた。
「ようやくお前らしくなってきたな」
「……はい?」
「本来のお前は、いつも私には余計な気遣いをせず本音を口にし、顔に出すだろう。ようやく、そのお前らしくなってきたと言ったのだ」

 虚を突かれたような顔の重実に親房がそう言いながら微笑を返した時だ。
「お客さん、お連れさんがお見えですよ」
 と、襖の向こうから下女の声がした。
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