第58話 先の見えぬ峠・弐

文字数 2,101文字

 急ごしらえに紘子の寝所と化した奉行所の一室。
 イネは紘子の枕元に座り込むなりおいおいと泣き出した。
「姫様、姫様……! ああ、こんなにも酷い目に……おいたわしゅう、おいたわしゅう……」
 いつぞやの雨の晩に紘子から聞いた通り、イネは随分と涙もろい性格のようだが……。
(あの時はひろも然程詳しくは話さなかったが、それにしても聞きしに勝る泣き虫ぶりだな)
 重実はつい苦笑を漏らす。
「お綺麗なお顔までこんな……痕など残りますれば嫁の貰い手も……」
「どんな顔でも俺の気は変わらんが」
 苦笑していて頬が緩んでいたせいだろうか、重実はうっかり口を滑らせた。
 彼の一言にはイネの涙も引っ込む。
「お、お殿様、それは……」
(しまった……)
 重実は額を掻きながら、
「まぁ、その、あれだ……この一件が片付いたら、諸々と……とは考えている。ひろも悪い気はしていなかったようだし……まだ正式に申し入れてはいないが」
 としどろもどろに説明した。
 暫くの間、イネは呆然と重実を見つめていたが、やがてその目尻からは滝のように涙が流れる。
「何と、何と、姫様はお殿様と……ああ、何と喜ばしい。あの姫様が、一時は死をもお覚悟召されていたあの姫様が……」
 イネは泣きながら重実に平伏する。
 その様はさながら仏を拝む信徒のようだ。
「ありがとうございます、ありがとうございます……」
(全く、ひろは随分とイネに愛されているのだな……)
 自身も決して大事にされていなかったわけではないが、イネの様子に垣間見える紘子への深い愛情が重実には眩しかった。
 安穏な日々を共に過ごしただけでは手に入らない、共に地獄に身を投じたからこその強い絆がイネと紘子の間にはあるのだろう。

 ならば、イネの存在は紘子にとってきっと今もひどく大きいものの筈だ。
(この先ひろには否が応でも城暮らしを強いる事になる。イネが傍にいれば、ひろの気も少しは楽になるのではないか……?)
「なぁ、イネ。其方、今後は如何にするつもりだ? やはり尾張に帰るか?」
「恐れながら……」
 イネはおずおずと頭を上げる。
「尾張の家では良くして頂いておりましたが、所詮は遠縁の居候、しかもお尋ね者とあれば肩身は狭うございます。家の者たちも、この二年はさぞ肝を冷やしながら過ごしていた事かと。濡れ衣が晴れたとて、お尋ね者の肩書きが取れるのみで居候には変わりございません。出来る事なら、尾張の家にはもう迷惑を掛けたくないと思っております。ただ今お殿様の元に参りましたは、この婆を姫様のお側に置いて頂きたくお許し願うためにございます」
 イネはまた頭を下げた。
「私は生涯姫様にお仕えすると八束の旦那様と奥様にお約束いたしました。だというのに、私は姫様の元を離れ、二年もの間お独りにさせてしまいました。今度こそ、生涯お支えしたいのでございます」
(ははっ、渡りに舟とはこの事だな)
「そいつは都合がいい」
「……と、仰りますのは?」
 きょとんとした顔を上げたイネに、重実はニッと口端を上げる。
「イネ、ひろと共に峰澤の城に入れ。ひろもきっと喜ぶ」
「お殿様……」
 イネは重実をまじまじと見つめた。
 横たわる紘子に落とされる重実の眼差しはどこまでも穏やかで、温かい。
(ああ、このお方は心から姫様を大事に思っていらっしゃる……八束の旦那様によく似ておいでだ)
「ありがたき幸せにございます。身命を賭してお勤めさせて頂きます」
 そう言って深々と礼をするイネに頷くと、重実は徐ろに立ち上がる。
「そうと決まれば早速ここでひろを看ていてくれ。俺は少々用がある故、出てくる。夕刻までには戻る」
「は、はぁ……承知いたしました」
 重実の突然の行動に呆気にとられつつも、イネはどうにか頷いた。

 重実は松代の奉行所を出ると、旧朝永領から外れた宿場町に足を運ぶ。
 商家の建ち並ぶ賑やかな通りで、彼は「佐原屋」と彫られた看板を掲げる一軒の小間物屋に入った。
「頼もう」
 ひと声上げると、番頭らしき男が進み出る。
「いらっしゃい、何かご入用で?」
「店主は戻っておるか? 俺は先刻、奉行所にいた者だ。白洲での店主の目利きに感服してな、ひとつ頼まれてもらえんかと思ってな」
 重実の言葉を聞きつけ、奥から店主が姿を現した。
「これはこれは。確か……江戸からいらしたご公儀のお侍様でございますね」
(正しくはご公儀のお侍様の「お付き」のようなもんだったが……まぁいいか)
 白洲で活躍した親房の姿を思い出し、彼と同等に並んで称されるのもどうかとやや気まずくなりはしたが、今更この商人に事の次第を説明する必要もない。
 重実は「ご公儀のお侍様」として店主と会話を続ける。
「白洲で見ただけであろうに、俺の顔を覚えていたか。流石だな」
「これでも客商売を生業としております故、人様の顔を覚えるのは造作もございません」
(その眼力と物覚えの良さに此度は救われたな……この者が吉住の顔を覚えていてくれなければ、あの簪について証を立てられなかった)
「なるほど、良い目をしておる。では、ひとつその目で見繕ってもらいたい物があるのだが……」
「では、どうぞこちらへ」
 重実は店主に促され店に上がった。
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