第103話 歯車は動き出す・壱

文字数 1,647文字

……
…………
「……本気か? 従重」
 従重が口にした「八束幹子を亡き者にする」という一言の後、策の全貌を聞かされた親房が発した声は小さく震えていた。
「冗談で斯様な話をするとお思いか」
「それは……だが、お前は真にそれで良いのか!? 確かに筋は通っている、恐らく伊豆守様も納得させられるだろう。しかし、さすればお前は――」
「お覚悟召されよ!」
 従重の鬼気迫る一喝に親房は続きを呑み込み硬直する。
「たかだか一万石の大名家など、徳川にしてみれば耳元で鳴く蚊に等しい。気に入らぬと思えば容易く叩き潰す。鳴かず刺さずの姿を見せねば、飛び去ることさえ許されぬ」
 行灯の仄暗い明かりのせいもあるかもしれない。そう語る従重の顔は、厳然たる中に僅かな悲壮感を滲ませるものだった。
「恐らくはこれが最良で確実な策でありましょう。田辺殿……乗ってくれますな?」
(従重は、全て見えていて言っている……この策が成ることも、その先のことも。もはや、この男は覚悟を決めたということか)
 親房は数秒の沈黙の後、視線を従重の双眸に合わせる。
「……乗ろう」

 翌朝早く、親房は帰宅の途についた。
 昼過ぎに屋敷の玄関に入り、一言「今帰った」と挨拶をすると、妻の菜緒が急ぎ足で出迎える。
「お帰りなさいませ。お疲れ様でございました」
 親房の顔を見て安堵したのだろう、ほんの少し緩んだ表情を見せる妻に、親房は
「すまん、心配をかけた。重実との話が思いのほか長引いてしまい、帰るに帰れなかった」
 と詫びながら履き物を脱ぎ、廊下に上がった。手荷物を預かった菜緒は、その様子をさりげなく見つめている。
 自室に入り着替えを済ませてくつろぐ親房に茶を淹れながら、菜緒は徐ろに口を開いた。
「あなた、私に何か言いづらいことがございましょう?」
 湯呑みに伸ばす親房の手が止まる。
「……女遊びはしておらんぞ? 昨夜は真に話が長引いて日が暮れてしまったが故に旅籠に入ったのだ」
「分かっております。私が申し上げたいのはそのことではなく……」
 弁明する親房に苦笑しながらも、菜緒は話を逸らさない。
「……何か、重いものをお抱えになってしまったのではございませんか? と。それも、私に言いづらいようなものを」
「……っ」
 家同士が決めた結婚で、互いの間に恋情などなく始まった夫婦の生活。親房は婿入りした田辺の家を守ること、菜緒は夫を陰日向に支えながら跡取りをもうけること、それぞれがそれぞれの役割を果たすべく日々を送ってきたつもりでいた。
 しかし、菜緒はこれまできっと親房を知ろうと彼女なりによく見てきたのだろう。他の誰が気付くこともできないような、夫の表情や雰囲気の些細な変化を彼女は見逃さなかった。
(何と聡く愛らしい女であろうか……心の内を見抜くほど私を想ってくれていたとは。妻に想われるとは、こうも喜びを感じるものなのか)
 ふとそんな感情が湧き、親房は戸惑いを覚える。自分にはもったいないほど良くできた妻だと思い感心したことは何度もあったが、彼女に対して「愛らしい」などと思ったことは、恐らく初めてではなかろうか、と。
(そういえば、いつぞや重実に説かれたな……)
 情も深まれば愛となる――説かれた当時はそういうものかと思うにとどまっていたが、親房は今になってあの言葉を実感した。
(菜緒ならば、察してくれようか)
 湯呑みに指先を触れては離し、触れては離しを幾度か繰り返した後、親房は妻に正対し頭を下げる。
「頼む。何も訊かずに、私にお前の髪を一房切り分けてもらいたい。このようなことを頼めるのは、私にはお前しかいないのだ」
「あ、頭をお上げ下さいませ!」
 家長たる夫がいきなり頭を下げてきたことには、さすがの菜緒も動転した。
 しかし、やはり親房が認めるだけあって彼女の切り替えは早い。彼が頭を上げて妻の顔を見た時には、
「……ええ、目立たぬところであれば、お望みの丈でご用意いたしましょう。ただし、全てが片付きましたらば、種を明かして頂けますか」
 という答えとともに微笑んでいた。
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